
第2回 「神様の育児書」
むかしむかし、日本がまだ農業国だったころ、人々の多くは(全人口の約80%)農村に住み、村落共同体と呼ばれるコミュニティを形作っていました。日本の工業化が進むにつれ、人々は都会へと移動し、コミュニティは崩壊し、人々は孤独な群衆として孤立した社会生活を営むようになってゆきました。
家族という形態にも変化がおこり、都会では核家族が次第にふえてゆきました。
このような時代背景の中では、子どもを育てるということは一人一人の責任にゆだねられるようになってゆきます。コミュニティからも、自分たちの親や親戚からも育児の知恵を伝えてもらえない親たちは、マスコミが流す育児情報にすがらざるをえません。
こうして、利用するはずの育児情報が次第に力を持ち始め、いつの間にか育児の世界を支配するようになってきたのです。
その支配を権威づけているのが小児科医を始めとする専門家です。そしてその権威はもはや呪縛的な力を持っているといってもよいでしょう。もう神がかりの世界です。
こういう神がかりの世界では「育児書どおりに子どもが育てられない」なんていうことは神を冒涜することですから、その悩みたるや深刻さはきわまりません。育児ノイローゼなどという状態がおこってくる原因はまさに「育児の神がかり」にあるのです。
でもそれはそれで救いというものがあるのです。育児というものが神がかりなら、育児書というのは神様のお告げみたいなものだと考えちゃえばいいのです。
「育児書ってのは最初っから人間にはとてもできないようなことが書いてあるんだ」って考えちゃうのです。
人間にできないことができるのは神様だけですから、育児書には神様の育児法が書いてあるのです。神様なら当然育児書どおりにスイスイ子育てができてしまって、理想的な神様の子が育っちゃうわけですけど、人間にはとうていできるもんじゃないのです。
新・新興宗教の時代といわれる昨今で、世に宗教はあまたありますが、どの宗教にも信者が守るべき、あるいは努力すべき神(仏)の教えというのがあります。神仏の教えというのはなみの人間ではできないということを前提としていて、一所懸命努力して少しでも神仏に近づこうというものなのです。なんの努力もせずにどんな人間でも達成できちゃう教えだったら宗教なんていらなくなっちゃうじゃないですか。
で、育児は神がかりかもしれませんが宗教ではありませんから、育児書には神様の教えが書いてあるわけじゃないのです。努力目標でもなんでもありませんから、育児書を読むときは「神様って、こんな子育てするんだ。そっかあ、そーなんだ。」と、明るく読み流せばいいのです。
育児は宗教じゃありませんからそのとおりできなくても、「私は罪深い親です。神様どうぞお許しを。」なんてかしこまる必要なんかまるでないのです。
でも神様だって悩むことがあります。夜泣き対策と便秘対策です。育児書のそのページを読むと、ああしたらいい、こうしたらいいと、神様らしくもなくいろんな対策が書いてあります。神様なんだから「こういうときはこれ」ってきっぱり言い切ってほしいと思うのですが、こればっかりは神様でも悩むようです。神様でも悩むのですから、神ならぬ人間にうまくいくはずがないのです。
それなら始めから育児書なんか読んだってしょうがないじゃないかって思うかもしれませんが、そうはいきません。神様の子育て法を知らないと、世の中で迫害を受ける危険がいっぱいあるのです。
その一番いい例が「夜の授乳」です。
9・10か月健診に行くと「もうそろそろ夜の授乳はやめてますね」って聞かれることがあります。そこで神様のやり方を知らずに「いいえ、まだ2回ぐらいあげてます」なんて答えようものなら厳しいおとがめが待っているのです。
こういうときは神様のやり方どおり、「ええ、夜はいい子でずっと寝ています」と答えておけば、世の中万事うまくいくのです。夜の夜中に人のうちまでやってきて、授乳をしてるかどうか確かめる専門家なんているわけがありません。知っているのは神様だけなのです。
「神様、ダシに使ってゴメンネ」とあとであやまっておけば慈悲深い神様はきっと許して下さるはずです。
こんなすばらしい贈り物を下さった神様に感謝しながら、もう一度育児書を読みなおしてみましょう。きっと新しい発見があるはずです。
ホントかいね?