
第17回 「甘えん坊」
明治維新以来、どうも日本人は西洋人に対して自分を卑下することが習慣のようになってしまって、日本的あるいは日本人的なものはすべて西洋的なものに変えなくては国際社会で通用しないみたいな風潮がはびこっています。
一方、「西洋近代は終わった」みたいなかっこいいことをいって、西洋が行き詰まっていること、そして西洋に取って変わるのが日本であり、日本的・アジア的なものであるなんてな声が次第に高まってきていることも事実です。
こういう時代背景の中で日本人の精神構造を考えると「恥の文化」とか「甘えの構造」などという言葉が思い浮かびます。
確かに、「甘え」というのは西洋人の精神構造には少なく、日本人の中にはけっこう浸透しているといえるでしょう。恋愛中には、「何でもボクに甘えてほしい」なんて言っておきながら、いざ結婚してみたら男のほうがどうしようもない甘えん坊だったなんてのはよく聞く話ですから・・・。
でもここで問題にしているのは大人における甘えであって、この甘えが子どもの甘えと同じかどうかはきちんと整理しないといけないんじゃないかって思うんです。
たかが甘えの話をするのに日本がどうの、西洋がどうのとおおげさすぎると思われるかもしれませんが、たかが甘え、されど甘え、国際社会における甘えって、これからとっても大切になってくるんですよ。まあ聞いて下さい。
日本人の子どもだって、西洋人の子どもだって、アジア人だって、アフリカ人だって、子どもはけっこう親に甘えています。世界共通の子どもの親に対する甘えと、日本特有の大人の他人に対する甘えは別のものだと考えたほうがよさそうです。どこがどう違うかというと、日本人の大人の甘えは、「甘えさせてくれるものだ」という暗黙の了解の上に成り立っています。だからもし甘えさせてもらえなかったときには、「あいつは冷たい」とか、「あいつは仁義をわきまえていない」とかいった相手への非難になるわけです。これに対して、子どもの甘えには結果に対する保証がありません。甘えが通れば満足が得られるし、通らなければ不満が自分の中に残ります。この不満を解決するために、子どもは、ときにはかんしゃくを起こし、ときには媚びを売り、ときには交渉したりします。もっとも、昨今の世界情勢を見ているとかんしゃくや媚びも交渉の一種だと思えないではありませんが・・・。
ま、それはともかく、西洋では成長するにつれて、この交渉の部分が前面にでてくるために、もともと甘えから発した要求であっても甘えに見えなくなってしまうのです。日本人はこの交渉ごとというのが大の苦手ときていますから、甘えの部分が表から見えてしまう。その挙げ句、日本人は勝手だのわがままだのと言われてしまうのです。
よほどの聖人君子でない限り、誰だって一生甘えて暮らしたいのです。でもそれが許されないのは、甘えの部分が表に出てしまったときです。逆にいえば、誰の目にも交渉ごとだと見えて、甘えの部分を決して見抜かれないだけの技量を持っていれば、決して甘えだといって非難されることはないということです。
以前のこの育児講座(第8回/2015年5月28日掲載)で「要求に応えることは決して甘やかしではない」ということを書きました。もっと正確にいうならば、「結果に保証のない要求に応えることは決して甘やかしではない」とするべきでしょう。これは甘えに対する親側の態度について書いたものですが、このような前提に立てば要求に応えることは親の決断だということになります。決断はどう見ても甘やかしには結びつきません。
ただ、親心があるならば、子どもが成長したあと、甘えを甘えと見抜かれないだけの交渉力を身につけられるように配慮すべきだということでしょう。交渉のない要求を受け入れ続けるとしたら、それは甘やかしとのそしりを受けてもしかたのないことかもしれません。また逆に、交渉の上手な甘えを身につけた子どもが大人になって外交官にでもなってくれたら、日本の外交下手にこれほど歯ぎしりをしなくてもすむようになるでしょう。世界が甘えの上に成り立っているのは誰の目にも明らかなんですから・・・。
国際社会における日本ということを考えるなら子どもにはもっと甘えさせるべきです。そしてときには、「あなたってホントに甘えるのが下手ね。甘えってのはこうするものなのよ、見てらっしゃい。」と、教えることのできるような親にならないといけないでしょう。
いったい誰に甘えるのかって?そんなこと知りませんよ。