
第20回 「弱虫」
突然ですが、「ビッグ・コミック」という雑誌をご存じですか?このブログをご覧になるのはほとんどが子育て中のお母さんなのでご存じの方は少ないと思いますが、小学館で出版している男性向けのコミック誌です。この「ビッグ・コミック」には「ゴルゴ13」(13はサーティーンと読みます)というタイトルの劇画が、もう30年近く連載されていて、私はこの「ゴルゴ13」の大ファンなんです。そんなことはどうでもいいんですけど、「ゴルゴ13」というのは主人公のコード・ネームで、主人公は冷血非情の凄腕のスナイパー(殺し屋)で、弱虫とはまるで縁のなさそうな人物なんですが、あるとき彼がこう言ったんです。
「俺がここまで生きのびてこられたのは、俺が臆病だからだ。」
かっこいいでしょう。「俺が今まで医者をやってこられたのは、俺が弱虫だからだ。」なーんて言ってみたいですよね。
臆病と弱虫はちょっとニュアンスが違うかもしれませんが、この際同じように考えてみると、弱虫、つまり「弱い子」というのは、「慎重な子」といえると思います。そうすると「強い子」というのは「無鉄砲な子」というとらえ方になります。こういうとらえ方をしたら、「強い子」と「弱い子」、どっちがいいと思いますか?
話はがらっと変わりますが、病気や障害を持った人たちを「弱者」(社会的弱者)と呼ぶことがあります。子どもや老人も「弱者」としてとらえられています。こういう「弱者」と呼ばれる人たちに健康をもたらしてきた医者は「弱者の味方」と言えるかもしれません。
では「弱者の味方」である医者は「弱者でない人たち」つまり「強者」の敵かというとそうではありません。医者は「強者」からも嫌われたり恐れられたりする存在ではありません。「強者」だって病気をすれば医者にかかるでしょう。そういう意味では医者は「みんなの味方」、もっとかっこよく言えば「正義の味方」の部類に入りそうです。
でも本当にそうでしょうか?
人間の社会は、洋の東西を問わず、「強者の論理」で成り立っています。別に弱肉強食の世の中だとは言いませんが、からだの弱い人間よりは身体頑強な人間、愚かな人間よりは賢い人間、優柔不断な人間よりは決断力に富む人間、そういった人間が「強者」として社会の中心となり、社会を動かしていくように作られています。
医者は「弱者」に医術を施して「強者」の仲間入りができるように手助けします。そうしたほうが「弱者」にとって都合がよくて、楽で、幸せをもたらすからです。そしてそれは同時に「強者」にとっても都合がよくて楽なことだからです。「弱者」は「強者」になる、あるいは「強者」に近づくことによって社会の一員として認められるのです。
悲しいことに、過去の多くの医者が、「弱者を助ける」と信じて、実はこの「強者の論理」に基づく医療を行っていたのです。医者が本当の意味で「正義の味方」と呼ばれるよう、「弱者の論理」に立った医療とは何なのか、医者自らが問い直さなければならないでしょう。
突然こんなことを言い出したわけは、「強い」ということと「弱い」ということをいろんな角度から考えなおしてほしいという気持ちと、現代の社会、特に日本の社会が、「弱い人たちが損をする社会」だということを理解してほしいと思ったからです。
社会自体が「強者の論理」で成り立っている以上、「弱者」よりは「強者」のほうがいいのはもちろんわかります。しかし、どうも今の世の中を見てますと、異常のある者や弱い者はもうそれだけで現代社会のお慈悲にすがってなきゃ生きちゃいけないみたいな風潮を感じるのです。社会福祉は確かに進んではいますが、どこかこの「お慈悲」という感じが見えかくれしています。
こういう社会にこそ「正義の味方」が必要なんだと思うのです。古典的「正義の味方」っていうのは、洋の東西を問わず役人に追われるものと相場が決まっています。日本では「鞍馬天狗」だし、西洋では「ロビン・フッド」です。そして「正義の味方」が役人に追われると必ず町人や村人がかくまってくれるのです。「正義の味方」っていうのは、結局一般大衆の小さな意志が集まったものなんだといえるでしょう。
強い子に育てる社会ではなく、弱虫だから生きのびられる社会を作ろうという小さな意志が集まったら「社会正義」という理想が実現するのではないでしょうか。
でも現実の問題として、よその子におもちゃをとられても何もせずに突っ立ってるわが子を見ることほど、くやしくて歯がゆいものはないってこともよーくわかりますけどね。