
第21回 「ひとりっ子」
「ひとりっ子」って聞くと中国の「ひとりっ子政策」が有名ですが、中国もついに「ひとりっ子政策」に終止符を打ったようです。16億という日本の10倍以上もの人口を抱えて、これ以上人口が増えてはたまらないという中国政府の切なる思いはわからないでもありませんが、子孫がふえることが最上の喜びであるという生物の本質に反する、そしてまたときには人権を無視したこの政策は決してほめられたものではなかっただけに、今回の中国政府の方針転換は歓迎すべきことと喜んでいます。。
だから日本でもひとりっ子はやめましょうなどと言うつもりはありません。日本では政府が「ひとりっ子政策」をとっているわけではありませんからね。でも、日本では別の意味でひとりっ子が問題になっているのです。
ご承知のように、現在の日本ではこどもの数がどんどん減っています。ヨーロッパ諸国ではかなり前に同じようなことを経験し、スウェーデンやドイツなど一部の国では今少しずつ生まれるこどもの数がふえていますが、イタリアなどは相変わらず日本よりもずっと少ない出生率が続いています。低出生率は先進国の証しだと言えないこともありません。
それなのにことさら日本で低出生率が大問題になるのは、日本が他の先進国よりもはるかに深刻な高齢化社会を迎えているということです。日本人の平均余命(寿命)はもう何年も世界一の座を保っています。今世紀には世界一の老人大国になるのです。高齢者の人口がふえて、若年者の人口が少なかったらどうなるか?そうです。お年寄りの面倒を誰が見るかということが大問題なのです。
そればかりではありません。今世紀中には若者が少なくなり、国内の労働力の不足が目に見えているのです。
こうなると日本政府としても気が気ではありません。こどもをふやさなければ日本が滅びる、とまでは考えないでしょうが、何とかこどもを産ませようとあの手この手を考えています。かといって「産めよ、ふやせよ、地に満てよ」では戦前の軍国主義になってしまいますから、表面だっては動いていませんが、からめ手から妊娠可能な年齢層の人達にこどもを産みたくなるようなキャンペーンを繰り広げているのです。
こういう状況の中に生まれてくるこどもたちのことを考えてみましょう。
こどもたちは生まれたときから、高齢化社会の担い手、将来の労働力としての宿命を持たされているのです。こんな失礼なことがあるでしょうか。家庭を中心とした社会の中で成長するにつれて高齢者に対する尊敬といたわりの気持ちがわいてくるならいざ知らず、生まれたとたんに「君は高齢化社会の担い手だ」なんて言い渡されたらこどもはたまりません。人間も地球上の生き物の仲間なんですから、こどもが生まれるというそのことに喜びを感じたいですね。こういう社会情勢で、もし私が妊娠可能な年齢の女性だったら、意地でも産んでやるもんかって思っちゃいます。
ま、そういう時代背景はともかく、ひとりっ子って本当に具合が悪いんでしょうか?
よくひとりっ子は手をかけられ過ぎて育つから甘えん坊でわがままで協調性がないなんて言われます。また一人だけじゃこの子がかわいそうなんてことも言われます。これはあながち間違いではありません。兄弟の数が多ければ、これらのことは兄弟同志の切瑳琢磨の中に埋もれてしまうでしょう。でもそれが血を分けた兄弟でなきゃいけないと考えるところに現代の落とし穴があることも事実なんです。


もちろんここで言うような社会の連帯が得にくい状況であることは理解しているつもりですが、社会の連帯が得にくい状況を作り出したもともとの元凶への反省もなく、個人や家族が社会の中で分断され、孤立している状況を前提とした子育て技術を喧伝しているマスコミや一部の育児専門家の方にこそ大問題があるというべきなんじゃないでしょうか。
とはいうものの、いくら社会の連帯が達成されたとしてもこどもはごちゃごちゃいたほうが楽しいものです。ひとりっ子でもいい。ふたりっ子でもいい。3人以上いてもいい。一つの家庭の子どもの数に惑わされずに、こどもにとって何が楽しいのかをこどもの立場になって考えることが一番だと思うのです。
こどもを育てている家庭の一つ一つが切り離されてしまっているというところに現代社会における一人っ子の問題があるのだと、私は考えているのですが、昔のように「向こう三軒両隣り」とはいかないところに難しさがありますね。