2016年03月17日

育児講座24「大器晩成vs栴檀は双葉より芳し」

oxfam.jpg 育児講座とはいっても決して堅苦しいものではありません。また、直接育児に役立つような知識というわけでもありません。世間でまかり通っている育児の情報に「ホントかいね?」と疑問を投げかけ、ちょっとした考え方の変化で育児が楽しくなるようなそんな記事を掲載しています。


     第24回  「大器晩成vs栴檀(センダン)は双葉より芳し」

 こつこつと努力を重ねているにもかかわらずいつになっても目の出ない人というのはどの世界にもいるものですね。そんな人が後年大成功した時に出てくる決まり文句が「大器晩成」という言葉です。そしてこの言葉はまた、いつになっても目の出ない人がくじけそうになるのを慰める言葉としても使われています。

 「大器晩成という言葉もあるじゃないか。せっかくここまで頑張ってきたんだから、もう一踏ん張り続けてごらんよ。」というのが典型的な使い方です。時々は他人から言われるのではなく、自分で自分に言うこともあります。むなしいですけど。

 これに対し「栴檀は双葉より芳し」という諺はまず、ほめ言葉以外には使われません。結婚式の披露宴で、お仲人さんが新郎新婦の幼少時代をを紹介する時によく使う言葉です。「栴檀は双葉より芳しと申しますが、新郎の△△さんはこどもの頃から○○に秀で、現在○○の中核を担う存在として頑張っておられます」というような使い方ですね。

 でもへそ曲がりな私にはこういう使い方もできます。「栴檀はは双葉より芳しだと思ったけど、今になってみれば結局栴檀じゃなかったんだね」。もちろん大きく育ってからしか使えません。この使い方は「大器晩成」の使い方に似ています。「大器」にしても「栴檀」にしても、あとで花開いたからそう言えるのであって、大輪の花を開かせることができなければ、ただの目の出ない人、栴檀じゃなかった人でおしまいなのです。栴檀じゃなかった人には「桂の早跳び歩の餌食」という将棋の格言が待っています。そう「神童も二十過ぎればただの人」という川柳もありました。

 まあ「大器」にしても「栴檀」にしても、大輪の花を咲かせる時期が早いか遅いかの違いを言っているわけですが、いずれにせよ、本人の素質が大きく関係することは事実です。

 早いか遅いかを語れば、「善は急げ」という諺と「急いてはことを仕損じる」という諺とが好対照です。

 現代の子育てにおいては、専門家と称する人たちから流されるもっともらしい情報はすべて「善」であるという前提が暗黙のうちに了解されている節がありますから、その情報に早く飛びついて実践することはまさに「善は急げ」ということになります。

 さらに「臨界期」という言葉があって、ある時期を過ぎてしまうとその後どんなに努力しても獲得できない能力があるなんて脅されればなおさらのことです。

 この一連の「急がせ情報」を分析すると、共通の図式が浮かび上がってきます。

 まず、「すべての赤ちゃんには多くの素晴らしい能力が秘められています」という言葉で親をその気にさせます。「すべての赤ちゃんにすべての能力が」と言わないところがミソです。次に、「その能力を親のちょっとした努力で引き出し、伸ばして上げましょう」と親の責任感をくすぐります。「その能力」は始めから持っていないかもしれないのに・・・。

 さらにだめ押しに「臨界期」という言葉で脅しをかけておいて、仕上げには、「このメソードで〇〇をした△△ちゃんはこんなにすごい」と実物を見せつけます。
 
 そしてその子が10年、20年後にどうなったかは決して教えてくれません。

 まさに「あとは野となれ山となれ」です。

 そしてこういう「急がせ情報」が果たして「善」なのか、逆に子どもにとって「危険」なものなのかは本当はよくわかっていないのです。

 危険だとわかっていれば「君子危うきに近寄らず」でしょうし、それでもわが子が人の子より先んじてほしいばかりに「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と勇気(?)をふるう親もいるかもしれません。

 今回は反対の意味を持つ諺をいくつかご紹介しましたが、世の中にはこのような反対諺が山ほどあります。ということは、「人生なんてあとになってみなけりゃわからないもの」ということを先人たちはよく理解していたということなののでしょう。きっと。

 さてあなたのお子さんは「大器」なのでしょうか、それとも「栴檀」なのでしょうか?




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2016年03月03日

育児講座23「いい先生って?」

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     第23回  「いい先生って?」

 「先生といわれるほどの馬鹿でなし」という言葉があります。確かに、「先生、先生」とおだてられてふんぞり返っているオバカサンな先生達が世の中にはいっぱいいます。私も医者のはしくれですから、先生と呼ばれます。40年以上も医者をやっていますと、診療所ではもちろん医療とは関係のない場でも先生と呼ばれますから、今ではもう先生と呼ばれることが当たり前と思いこんでしまって、たまに「先生」ではなく「さん」付けで呼ばれたりすると思わず「ムッ」としちゃったりしてよく反省しています。まさに「先生といわれるほどの馬鹿でなし」です。

 医者も先生ですが、学校の教師、習い事の師匠、議員さん達みんな先生です。中国では年配の人に対する敬称として「先生」と呼ぶそうで、読んで字のごとく「先に生まれた」という意味でしょうか。

 今でこそ診察室でお目にかかるお母さんよりは「先に生まれた」存在になりましたが、医者になりたてのころは私よりも「先に生まれた」お母さんが多くて、先生と呼ばれるのも気が引けたものです。先生と呼ばれるだけでも気が引けたようなありさまですから、いい先生かどうかなんていうのは夢のまた夢でした。それが今では「いい先生ってどんな先生?」と聞かれると「私みたいな先生」などと平気で答えるようになってしまったのですから歳月というのは人を変えるものだとつくづく感じます。

 さて今回は「いい先生(医者)」について考えてみましょう。それが「私みたいな先生」かどうかは読んだあとで皆さんが判断なさることです。

 無口で病気の説明も何もしてくれない、質問でもしようものなら「患者はそんなこと知らなくてもいい」と怒る先生と、こまごまと病気の説明から薬の飲ませ方、家庭での看護の仕方までくだけて話してくれる先生とどっちがいいかと聞かれたらまず誰でも説明をよくしてくれる先生がいいと答えるでしょう。ところがこの二人が外科の先生で、無口でおっかない先生は腕がよくて、やさしくて気さくな先生はちょっと頼りないとしたら、おっかなくても腕の立つ先生に手術してほしいと思うかも知れませんね。

 もちろんやさしくて気さくで腕も立てばそれにこしたことはないわけで、その先生がたとえ夜中でも気軽に診察してくれて、近所での評判もよく、世間でも有名だとなったら、それこそ百点満点のいい先生ということができるでしょう。

 こうやって客観的な医者の評価を重ねていけば、理想的ないい先生像ができるかもしれません。でもそれはあくまでも客観的な理想像であって、医者と患者さんの関係が人と人との個別的なつながりであることを考えれば、それだけでいい先生を定義することはできません。このような方法で作り上げられる「いい先生」というのは、「ダメな先生」に対する「イイ先生」であって、医者と患者さんの関係においては、「イヤな先生」に対する「イイ先生」も必要なのです。

 「イヤな先生」に対する「イイ先生」というのはどういうことかといいますと、一言でいえば「ウマが合う」ということです。

 「病気の説明や治療の説明を聞いても何となくしっくりこない、100%納得した気分になれない」というようなとき、きっとその医者と患者さんは「ウマが合わない」のです。医者が悪いのでもなく、患者さんが悪いわけでもないのです。一方、「病気の説明や治療の説明がスッキリと心の中に入ってくる」と感じたら「ウマが合う」と考えていいでしょう。

 不思議なことに「ウマが合う」医者とは話が弾み、納得はさらに深まり、信頼の気持ちもはぐくまれます。

 ウマが合うというのは、医者と患者さんの性格的なものだけとは限りません。病気の治療法についてもウマが合う・合わないがあるのです。病気の治療法というのは一つだけとは限らないのです。どんなに最新の、どんなに高度な治療法でも、ウマが合わなければ病気はよくならないのです。

 さらに、医者のほうがウマを合わせることも必要なことがあります。

 たとえば、医者が「このお薬は1日3回ずつ、必ず1週間飲み続けて下さい。」と説明したとき、それだけできっちりと1日3回1週週薬を飲む人もいれば、ついうっかりと飲み忘れるか、症状が消えてしまうと飲むのをやめてしまう人とか、1日3回で効くなら5回飲めばもっと効くだろうと勝手に判断してしまう人とかがいるのです。

 そのような場合、医者は相手の性格にまで踏み込んで、語気荒く断言したり、くどくどと説明したり、飲まなくてもいい薬のように思わせたり、いろいろな演技を要求されるのです。

 ですから、自分の前の人と同じ病気のはずなのに前の人とは全然違う説明を受ける、ということだってあるのです。それを「あの先生は人によって言うことが違うから信用できない」などと言ってはいけないのです。むしろ、そういう説明のしかたで、多くの人達に「あの先生とは何となくウマが合う」と思わせることのできる医者があなたにとって本当に「いい先生」なのです。

 「ウマが合うのがあなたの名医」と考えてくださいネ。「ホンマカイネexclamation&question


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2016年02月18日

育児講座22「パパと赤ちゃん」

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     第22回  「パパと赤ちゃん」

 ある国会議員のおかげ(?)で、男性の育児休暇への注目度が上がっています。そして、厚生労働省というお役所の政策会議の名前でさえ「イクメン」という言葉が使われるぐらいですから、ナンノカンノと言われながらも、子育てのシーンに登場する父親がどんどん増えてきていることは確かです。

 しかしこの父親が育児に登場するきっかけというのはなかなかむずかしいものらしく、親切な育児書には必ず登場のきっかけが書かれています。それは入浴と遊びです。だからといってすべての父親がかっこよく登場するわけではありません。なまじこういうきっかけが書いてあるために、やらなきゃ文句を言われる、やったらやったで中途半端だと文句を言われる父親も少なくありません。

 この困難を克服し、ときには挫折しながらも赤ちゃんへのアプローチを続けるパパに、現代の世間の風潮は厳しすぎます。もっと気ながに温かい目で見守ってあげるべきです。こういうのは私が男だからでしょうか?

 「もっと育児知識があればもっと楽に赤ちゃんと接触できるはずだ」と考える方もいらっしゃるでしょう。ホントにそうでしょうか?

 生まれたばかりの赤ちゃんの手のひらに触れると赤ちゃんは必ず握り返してくれます。「おい、うちの子天才じゃないか。オレが父親だってわかるみたいだぞ。」これでいいのです。そばで奥さんに、「何言ってるの。それは原始把握反射っていって、生まれたばかりの赤ちゃんは手のひらに触れたものは何でも握りかえすのよ。」などと言われた日には感動が薄れてしまうじゃないですか。

 パパと赤ちゃんの出会いには感動が大切なのです。赤ちゃんはたとえ無知であっても感動のあるパパが大好きなのです。感動と大好きの人間関係ができてから育児知識を詰め込んでも決して遅くはないでしょう。

 ところでまったく話は変わりますが(毎度のことで)、るんるんウルトラの父がいて、ウルトラの母がいて、そして太郎がここにいる。るんるん

 覚えてますか?そうです「ウルトラマン太郎」の主題歌です。なにもウルトラマン太郎の歌を引き合いに出すまでもなく、父と母がいて子どもがいるという図式は古今東西当り前のことでした。ただ、それぞれの役割というと、今までは育児はほとんど母の仕事で、父親の影はきわめて薄いものでした。でも本当に薄かったわけではなく、昔のホームドラマのセリフによく出てきたように「お父さんに相談して」とか「お父さんに怒ってもらいます」とか、最高裁判所みたいに最後に登場して最終決定を下す存在(役割)が父親だったのです。それはそれでなかなかに責任のいる仕事ではあったのです。

 それを親父の権威だと考える人にとってはウルトラマン太郎の家庭のようにいつも父がいて母がいてそして子どもがそこにいるというドラマの展開は自分の権威が失墜したように感じられて不愉快きわまりないことになるでしょう。

 しかしそれは余りにも一面的な見方であるといわざるを得ません。水戸黄門のように放送時間残り15分になると待ってましたとばかり「この印篭が目に入らぬか」とくる真打登場型のドラマもあれば、インディ・ジョーンズのように主役が最初から最後まで大活躍というドラマだってあるのです(古いなぁ)。どちらもそれなりに楽しめるし、どちらが好きかというのは単なる好みの問題でしかないでしょう。

 今や父親は水戸黄門ではなく、家庭におけるインディ・ジョーンズになりつつあるって考えるのはどうでしょう。最初から最後まで活躍するよう役柄が決められているのです。

 家庭における父親の役割が変わったことの背景に女性の社会的地位の向上という要因があるのを見逃すことはできません。家庭における最高裁でありたい男には、男社会に進出してきて男の領分をおかす女性を快く思えるはずはありません。だからその裏返しで男が育児に参加しなければならないということは男の地位の低下としか考えられないのです。

 このような考えの根には、社会は家庭より優越した存在であるという思い込みがあります。しかし社会と家庭は本質的に違うもので優劣関係で論じられるものではないのです。

 女性が社会に進出したと考えるのと同じ発想で男が家庭に進出したと考えることはできないでしょうか?そう考えれば、男の家庭的地位は着実に向上しているのです。それがインディ・ジョーンズに与えられた家庭的役割なのです。

 インディ・ジョーンズなどとおだてはしましたが、残念ながらパパは主役にはなれません。育児アカデミー賞の主演女優賞はもう母親と決まっているのです。主演男優賞など始めからありません。目指すのは助演男優賞だけなのです。

 パパは主演女優賞のママと一緒に子育てができてこんな幸せなことはないと本気で思わなくてはいけません。そしてその感謝の気持ちを赤ちゃんに伝えることから、パパと赤ちゃんの深い絆が創られていくのです。

 ホントかいね!
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2016年01月28日

育児講座21「ひとりっ子」

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     第21回  「ひとりっ子」

 「ひとりっ子」って聞くと中国の「ひとりっ子政策」が有名ですが、中国もついに「ひとりっ子政策」に終止符を打ったようです。16億という日本の10倍以上もの人口を抱えて、これ以上人口が増えてはたまらないという中国政府の切なる思いはわからないでもありませんが、子孫がふえることが最上の喜びであるという生物の本質に反する、そしてまたときには人権を無視したこの政策は決してほめられたものではなかっただけに、今回の中国政府の方針転換は歓迎すべきことと喜んでいます。。

 だから日本でもひとりっ子はやめましょうなどと言うつもりはありません。日本では政府が「ひとりっ子政策」をとっているわけではありませんからね。でも、日本では別の意味でひとりっ子が問題になっているのです。

 ご承知のように、現在の日本ではこどもの数がどんどん減っています。ヨーロッパ諸国ではかなり前に同じようなことを経験し、スウェーデンやドイツなど一部の国では今少しずつ生まれるこどもの数がふえていますが、イタリアなどは相変わらず日本よりもずっと少ない出生率が続いています。低出生率は先進国の証しだと言えないこともありません。

 それなのにことさら日本で低出生率が大問題になるのは、日本が他の先進国よりもはるかに深刻な高齢化社会を迎えているということです。日本人の平均余命(寿命)はもう何年も世界一の座を保っています。今世紀には世界一の老人大国になるのです。高齢者の人口がふえて、若年者の人口が少なかったらどうなるか?そうです。お年寄りの面倒を誰が見るかということが大問題なのです。

 そればかりではありません。今世紀中には若者が少なくなり、国内の労働力の不足が目に見えているのです。

 こうなると日本政府としても気が気ではありません。こどもをふやさなければ日本が滅びる、とまでは考えないでしょうが、何とかこどもを産ませようとあの手この手を考えています。かといって「産めよ、ふやせよ、地に満てよ」では戦前の軍国主義になってしまいますから、表面だっては動いていませんが、からめ手から妊娠可能な年齢層の人達にこどもを産みたくなるようなキャンペーンを繰り広げているのです。

 こういう状況の中に生まれてくるこどもたちのことを考えてみましょう。

 こどもたちは生まれたときから、高齢化社会の担い手、将来の労働力としての宿命を持たされているのです。こんな失礼なことがあるでしょうか。家庭を中心とした社会の中で成長するにつれて高齢者に対する尊敬といたわりの気持ちがわいてくるならいざ知らず、生まれたとたんに「君は高齢化社会の担い手だ」なんて言い渡されたらこどもはたまりません。人間も地球上の生き物の仲間なんですから、こどもが生まれるというそのことに喜びを感じたいですね。こういう社会情勢で、もし私が妊娠可能な年齢の女性だったら、意地でも産んでやるもんかって思っちゃいます。

 ま、そういう時代背景はともかく、ひとりっ子って本当に具合が悪いんでしょうか?

 よくひとりっ子は手をかけられ過ぎて育つから甘えん坊でわがままで協調性がないなんて言われます。また一人だけじゃこの子がかわいそうなんてことも言われます。これはあながち間違いではありません。兄弟の数が多ければ、これらのことは兄弟同志の切瑳琢磨の中に埋もれてしまうでしょう。でもそれが血を分けた兄弟でなきゃいけないと考えるところに現代の落とし穴があることも事実なんです。

 るんるん親の血を引く兄弟よりも、固い契りの義兄弟るんるんではやくざの世界になってしまいますが、子育てにおいて家庭の責任を重視し過ぎる風潮が子育てを難しいものにしている状況に気づけば、ひとりっ子の持つ欠点は社会全体の連帯の中で埋もれさせてあげればいいということになります。ひとりっ子の持つ欠点を家庭の責任で矯正させようとするから、2人目・3人目のプレッシャーが周囲からかかってしまうのです。

 もちろんここで言うような社会の連帯が得にくい状況であることは理解しているつもりですが、社会の連帯が得にくい状況を作り出したもともとの元凶への反省もなく、個人や家族が社会の中で分断され、孤立している状況を前提とした子育て技術を喧伝しているマスコミや一部の育児専門家の方にこそ大問題があるというべきなんじゃないでしょうか。

 とはいうものの、いくら社会の連帯が達成されたとしてもこどもはごちゃごちゃいたほうが楽しいものです。ひとりっ子でもいい。ふたりっ子でもいい。3人以上いてもいい。一つの家庭の子どもの数に惑わされずに、こどもにとって何が楽しいのかをこどもの立場になって考えることが一番だと思うのです。



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2016年01月14日

育児講座20「弱虫」

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     第20回  「弱虫」

 突然ですが、「ビッグ・コミック」という雑誌をご存じですか?このブログをご覧になるのはほとんどが子育て中のお母さんなのでご存じの方は少ないと思いますが、小学館で出版している男性向けのコミック誌です。この「ビッグ・コミック」には「ゴルゴ13」(13はサーティーンと読みます)というタイトルの劇画が、もう30年近く連載されていて、私はこの「ゴルゴ13」の大ファンなんです。そんなことはどうでもいいんですけど、「ゴルゴ13」というのは主人公のコード・ネームで、主人公は冷血非情の凄腕のスナイパー(殺し屋)で、弱虫とはまるで縁のなさそうな人物なんですが、あるとき彼がこう言ったんです。

 「俺がここまで生きのびてこられたのは、俺が臆病だからだ。」

 かっこいいでしょう。「俺が今まで医者をやってこられたのは、俺が弱虫だからだ。」なーんて言ってみたいですよね。

 臆病と弱虫はちょっとニュアンスが違うかもしれませんが、この際同じように考えてみると、弱虫、つまり「弱い子」というのは、「慎重な子」といえると思います。そうすると「強い子」というのは「無鉄砲な子」というとらえ方になります。こういうとらえ方をしたら、「強い子」と「弱い子」、どっちがいいと思いますか?

 話はがらっと変わりますが、病気や障害を持った人たちを「弱者」(社会的弱者)と呼ぶことがあります。子どもや老人も「弱者」としてとらえられています。こういう「弱者」と呼ばれる人たちに健康をもたらしてきた医者は「弱者の味方」と言えるかもしれません。

 では「弱者の味方」である医者は「弱者でない人たち」つまり「強者」の敵かというとそうではありません。医者は「強者」からも嫌われたり恐れられたりする存在ではありません。「強者」だって病気をすれば医者にかかるでしょう。そういう意味では医者は「みんなの味方」、もっとかっこよく言えば「正義の味方」の部類に入りそうです。

 でも本当にそうでしょうか?

 人間の社会は、洋の東西を問わず、「強者の論理」で成り立っています。別に弱肉強食の世の中だとは言いませんが、からだの弱い人間よりは身体頑強な人間、愚かな人間よりは賢い人間、優柔不断な人間よりは決断力に富む人間、そういった人間が「強者」として社会の中心となり、社会を動かしていくように作られています。

 医者は「弱者」に医術を施して「強者」の仲間入りができるように手助けします。そうしたほうが「弱者」にとって都合がよくて、楽で、幸せをもたらすからです。そしてそれは同時に「強者」にとっても都合がよくて楽なことだからです。「弱者」は「強者」になる、あるいは「強者」に近づくことによって社会の一員として認められるのです。

 悲しいことに、過去の多くの医者が、「弱者を助ける」と信じて、実はこの「強者の論理」に基づく医療を行っていたのです。医者が本当の意味で「正義の味方」と呼ばれるよう、「弱者の論理」に立った医療とは何なのか、医者自らが問い直さなければならないでしょう。

 突然こんなことを言い出したわけは、「強い」ということと「弱い」ということをいろんな角度から考えなおしてほしいという気持ちと、現代の社会、特に日本の社会が、「弱い人たちが損をする社会」だということを理解してほしいと思ったからです。

 社会自体が「強者の論理」で成り立っている以上、「弱者」よりは「強者」のほうがいいのはもちろんわかります。しかし、どうも今の世の中を見てますと、異常のある者や弱い者はもうそれだけで現代社会のお慈悲にすがってなきゃ生きちゃいけないみたいな風潮を感じるのです。社会福祉は確かに進んではいますが、どこかこの「お慈悲」という感じが見えかくれしています。
 
 こういう社会にこそ「正義の味方」が必要なんだと思うのです。古典的「正義の味方」っていうのは、洋の東西を問わず役人に追われるものと相場が決まっています。日本では「鞍馬天狗」だし、西洋では「ロビン・フッド」です。そして「正義の味方」が役人に追われると必ず町人や村人がかくまってくれるのです。「正義の味方」っていうのは、結局一般大衆の小さな意志が集まったものなんだといえるでしょう。

 強い子に育てる社会ではなく、弱虫だから生きのびられる社会を作ろうという小さな意志が集まったら「社会正義」という理想が実現するのではないでしょうか。

 でも現実の問題として、よその子におもちゃをとられても何もせずに突っ立ってるわが子を見ることほど、くやしくて歯がゆいものはないってこともよーくわかりますけどね。




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2015年12月24日

育児講座19「たんぼのおじやん」

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     第19回  「たんぼのおじやん」

 私が生まれたのは栃木県のある地方都市です。地方都市とはいっても戦後間もないころですから、私の家から5分も歩けばもうたんぼが連なるという田園都市です。小学校へ通うにも、中学校へ通うにもたんぼの中の小道を歩いていきます。そのたんぼの一つが「たんぼのおじやん」のものでした。

 「おじやん」というのは栃木県の方言で、「おじいちゃん」という意味なのですが、なにせまだ日本人の平均余命が50歳台の時代ですから、今でいえば中年にあたる「おじさん」も「おじやん」に含まれていました。ちなみに女性は「おばやん」と呼ばれます。

 このように「おじやん」というのは普通名詞なのですが、それが「たんぼのおじやん」となると、私達悪たれの間では知らぬ者のいない有名人だったのです。この「たんぼのおじやん」はなんともおっかないおじやんで、ことあるごとに私達悪たれどもを怒鳴りつけていました。ときには農作業用の鎌を振りかざして私達を追いかけてくることもありました。

 「たんぼのおじやん」につかまるとたんぼのはずれにある掘っ立て小屋の中に連れていかれて殺されるなどという根も葉もない忠告が、毎年ピカピカの小学1年生に先輩から伝えられていました。

 そのため「たんぼのおじやん」のたんぼには誰も近づかなかったかというとまったく逆で、みんなで連れだってはおじやんのたんぼの近くを通って登下校していたのです。おじやんが作業に精を出していて見向きもしないときなどは、「おじやーん、おじやーん」と声をかけたりしながら・・・。

 稲刈りのすんだたんぼは私達の絶好の遊び場です。数あるたんぼの中でも、おじやんのたんぼは人気最高のブランドたんぼでした。寒い冬空の下でも親切な(?)おじやんは「おめーらたんぼ踏み荒らすんじゃねー」と怒鳴りながら、逃げ惑う私達を追いかけて一緒に遊んで(?)くれました。

 今の都会ではこんなおじやんにお目にかかることは滅多にありません。怒鳴るどころかちょっとした忠告ですら「余計なお世話」みたいな目で見られてしまいます。

 一方、おばやんのほうはどうかというと、怒鳴るおじやんに対してはグジャグジャ言うおばやんというのがその当時のパターンでした。おばやんのほうは今でも多少健在かもしれませんが、それでも他人の子にまでグジャグジャ言えるおばやんは本当に少ないといえるでしょう。

 今の世の中で、他人の子育てに口を出して忠告をしてもいいのは、私みたいな権威のある(?)小児科医でなければならないのです。

 このような風潮を「子育ての商品化」という視点から見てみますと、二つの側面が見えてきます。一つは、子育てを商品化しようとする勢力が、暮らしの一部分でしかない子育てを何か特別の知識が必要なものであるかのように見せかけるために専門家という権威を作り出したということ。もう一つは、この権威に人々がすがらざるをえないように、素人同士の助け合いを邪魔するような社会構造を助長してきているということです。

 商品化ということはもとをたどっていけば当然資本主義経済というところに落ち着くわけですから、今言ったような二つの側面はこれまた当然のことになるわけです。資本主義は子育てをもその大きな口で飲み込んでしまったのです。

 だから資本主義が悪いと言いたいわけではありません。知らず知らずに子どもが商品とされてしまうような今の社会体制に気づく目を持ってほしいのです。社会体制がどう変わろうとも、いえ、社会体制がどうのこうのという以前の原始社会においても、子育ての基本は変わらないのです。人々が共通の経験と知恵を分かち合っていく暮らしの中で行われるのが子育てなのです。

 怒鳴ってばかりのおじやんや、グジャグジャうるさいおばやんの経験や知恵が生かされるのが子育てなのです。そこには専門家が君臨するような上下関係も、大量生産で市場に氾濫する子育て商品(知識も含めて)も存在の余地がないのです。

 子育てを社会で支援するということが昨今言われています。いろいろな施策が行政から提案されていますが、この子育て資本主義の考え方が是正されない限り、そしておじやんやおばやんが復権しない限り本当の意味での社会的支援は実現しないのです。

 それはまた、子育てを自分たちの力だけでやっていくことをみんなで認識し、決意することだとも言えます。これを私は「子育て自給自足論」と言いたいと思います。



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2015年12月10日

育児講座18「〇〇できますか?」

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     第18回  「〇〇できますか?」

 こどもを産んだことのある方なら、母子健康手帳、略して母子手帳を必ずお持ちでしょう。そして母子手帳の各ページには、それぞれの月齢・年齢に見合った質問が並んでいます。それぞれ自分のこどもの成長や発達の度合いを確認できるようにとの親切心からです。

 母子手帳に限らず、健診なんかに行くと、保健師さんからそれぞれの月齢・年齢に合わせて、「〇〇してますか?」とか「〇〇できますか?」って質問されます。

 今の母子手帳にはありませんが、以前のには、「声を出して笑いますか?」という質問があって、「うちの子、声を出して笑わないんですが・・・」という質問をまじめに受けたことがあります。診察をすると確かにその子は声を出さずに「ニヤッ」と笑う子でした。

 「〇〇できますか?」って権威をもって質問されると、その通りでないとそれだけで失格みたいな気分になってしまうようです。

 さらに1歳を過ぎると、「積み木を2個積めるか」とか「積み木を5個以上積めるか」なんていう質問もあります。積み木を何個積もうがその子の勝手だし、世の中には積み木は積めないけど、金の延べ棒だったら上手に積める子だっているかもしれません。もちろん、金の延べ棒をおもちゃにできるならの話ですが・・・。

 どうもこの手の質問には、それが発達の条件みたいな脅迫めいた点と、押しつけがましい点があるようです。

 脅迫めいた点について、私の友人の小児科医がおもしろいことを言っています。「だいたいその月齢でできそうなことだけ並べてるから、百点満点じゃないと不安になっちゃう。質問の中に普通じゃできそうもないことを加えればいい。たとえば、6か月の子には『逆立ちできますか?』とかね。もしほんとにできる子がいたら、『ウワーッ、天才だ!』って言ってやりゃいい。そうやってできそうなこととできそうもないことを一緒にしておけば百点満点じゃなくても誰も気にしなくなる。」まさに名案だと思います。

 さて、次には押しつけがましい点ですが、健診そのものが押しつけがましいと言ってもいいと思うんです。

 たとえば、3・4か月健診で必ず確認する首のすわりとか股関節の開きぐあいです。診察をするほうは、首のすわった赤ちゃんなら両手を持って引き起こせば必ず首もついてくるという前提で診察します。でもそのとき赤ちゃんがデレンとして寝ていたいのを無理やり引き起こされたとしたら、決して首を起こそうとはしないでしょう。

 股の開きぐあいを見るのだって、赤ちゃんが「初対面の大人になんで股を開いて見せなきゃいけないの?」なんて考えたら、きっとからだを固くしてしまいます。その結果「股節開排制限、要精密検査」となります。

 ことほどさように、健診の場では、赤ちゃんは診察者の意向に沿った行動が要求されているのです。そのときの赤ちゃんの気分なんて全く度外視されているのです。「あなた、遅刻するわよ。」と言われたら、亭主はすぐに起きてこなくてはいけないのです。

 かといって、赤ちゃんがその気になるまでずっと待っていたり、赤ちゃんのお気に入りのおもちゃで発達の様子を知ろうとしたりすると、一日かかっても一人の赤ちゃんの診察すら終わらないかもしれません。これもまた困ったことですから、どこかで基準を作ることもやむをえないでしょう。

 では健診を受ける側はどういう態度でいればよいでしょう。

 健診や母子手帳では運動の「発達」という観点から質問がなされています。運動の「向き・不向き」や「器用・不器用」や「好み」という観点がありません。質問者からは「それほど高度な運動を要求してはいない」と言われるかもしれませんが、高度ではなくても不得手な種目というのは誰にでもあるのです。小学生の頃、走るのは一番だけどどういうわけか跳び箱は絶対跳べないなんていう子がいませんでしたか?

 私自身、小学生の頃からスポーツは大好きで、小学校対抗のソフトボールの試合に学校代表として出場したことがあるくらいですが、鉄棒の逆上がりができるようになったのはクラスでビリから2番目でした。鉄棒が大の苦手だったのです。でも誰も私の発達が遅れてるなんて言いませんでした。

 世の中が、「発達」という狭い視野でしかこどもを見なくなっている今こそ、こどもをいろんな角度から見ようとする努力が要求されているのではないでしょうか。



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2015年10月15日

育児講座17「甘えん坊」

oxfam.jpg 育児講座とはいっても決して堅苦しいものではありません。また、直接育児に役立つような知識というわけでもありません。世間でまかり通っている育児の情報に「ホントかいね?」と疑問を投げかけ、ちょっとした考え方の変化で育児が楽しくなるようなそんな記事を掲載しています。


     第17回  「甘えん坊」

 明治維新以来、どうも日本人は西洋人に対して自分を卑下することが習慣のようになってしまって、日本的あるいは日本人的なものはすべて西洋的なものに変えなくては国際社会で通用しないみたいな風潮がはびこっています。

 一方、「西洋近代は終わった」みたいなかっこいいことをいって、西洋が行き詰まっていること、そして西洋に取って変わるのが日本であり、日本的・アジア的なものであるなんてな声が次第に高まってきていることも事実です。

 こういう時代背景の中で日本人の精神構造を考えると「恥の文化」とか「甘えの構造」などという言葉が思い浮かびます。

 確かに、「甘え」というのは西洋人の精神構造には少なく、日本人の中にはけっこう浸透しているといえるでしょう。恋愛中には、「何でもボクに甘えてほしい」なんて言っておきながら、いざ結婚してみたら男のほうがどうしようもない甘えん坊だったなんてのはよく聞く話ですから・・・。

 でもここで問題にしているのは大人における甘えであって、この甘えが子どもの甘えと同じかどうかはきちんと整理しないといけないんじゃないかって思うんです。

 たかが甘えの話をするのに日本がどうの、西洋がどうのとおおげさすぎると思われるかもしれませんが、たかが甘え、されど甘え、国際社会における甘えって、これからとっても大切になってくるんですよ。まあ聞いて下さい。

 日本人の子どもだって、西洋人の子どもだって、アジア人だって、アフリカ人だって、子どもはけっこう親に甘えています。世界共通の子どもの親に対する甘えと、日本特有の大人の他人に対する甘えは別のものだと考えたほうがよさそうです。どこがどう違うかというと、日本人の大人の甘えは、「甘えさせてくれるものだ」という暗黙の了解の上に成り立っています。だからもし甘えさせてもらえなかったときには、「あいつは冷たい」とか、「あいつは仁義をわきまえていない」とかいった相手への非難になるわけです。これに対して、子どもの甘えには結果に対する保証がありません。甘えが通れば満足が得られるし、通らなければ不満が自分の中に残ります。この不満を解決するために、子どもは、ときにはかんしゃくを起こし、ときには媚びを売り、ときには交渉したりします。もっとも、昨今の世界情勢を見ているとかんしゃくや媚びも交渉の一種だと思えないではありませんが・・・。

 ま、それはともかく、西洋では成長するにつれて、この交渉の部分が前面にでてくるために、もともと甘えから発した要求であっても甘えに見えなくなってしまうのです。日本人はこの交渉ごとというのが大の苦手ときていますから、甘えの部分が表から見えてしまう。その挙げ句、日本人は勝手だのわがままだのと言われてしまうのです。

 よほどの聖人君子でない限り、誰だって一生甘えて暮らしたいのです。でもそれが許されないのは、甘えの部分が表に出てしまったときです。逆にいえば、誰の目にも交渉ごとだと見えて、甘えの部分を決して見抜かれないだけの技量を持っていれば、決して甘えだといって非難されることはないということです。

 以前のこの育児講座(第8回/2015年5月28日掲載)で「要求に応えることは決して甘やかしではない」ということを書きました。もっと正確にいうならば、「結果に保証のない要求に応えることは決して甘やかしではない」とするべきでしょう。これは甘えに対する親側の態度について書いたものですが、このような前提に立てば要求に応えることは親の決断だということになります。決断はどう見ても甘やかしには結びつきません。

 ただ、親心があるならば、子どもが成長したあと、甘えを甘えと見抜かれないだけの交渉力を身につけられるように配慮すべきだということでしょう。交渉のない要求を受け入れ続けるとしたら、それは甘やかしとのそしりを受けてもしかたのないことかもしれません。また逆に、交渉の上手な甘えを身につけた子どもが大人になって外交官にでもなってくれたら、日本の外交下手にこれほど歯ぎしりをしなくてもすむようになるでしょう。世界が甘えの上に成り立っているのは誰の目にも明らかなんですから・・・。

 国際社会における日本ということを考えるなら子どもにはもっと甘えさせるべきです。そしてときには、「あなたってホントに甘えるのが下手ね。甘えってのはこうするものなのよ、見てらっしゃい。」と、教えることのできるような親にならないといけないでしょう。

 いったい誰に甘えるのかって?そんなこと知りませんよ。



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2015年10月01日

育児講座16「いい子ぶりっ子」

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     第16回  「いい子ぶりっ子」

 初めて出会った赤ちゃんが男の子か女の子かわからないとき、私は女の子という前提で話を進めることにしています。というのは、もしその子が男の子だったとしても、「エーッ、ホントー?あんまりかわいいんで女の子だと思ってた」って言えば絶対にカドがたたないからです。これが逆になってしまうとなかなか言い訳の言葉が見つからないのです。皆さんもそんな経験ありませんか?うまい言い訳の言葉があったら教えてください。

 とにかく子どもをほめる言葉でもっともポピュラーで無難なのが「かわいい」という形容詞です。これに匹敵するぐらいポピュラーで無難なのが「いいこ」という名詞ですが、この「いいこ」は最近だんだんランクが下がってきています。

 今回はこの辺の事情を考えてみましょう。

 昔の童謡には「いいこ」とか「よいこ」という言葉がたくさん登場しました。「よい子が住んでるよい町は」とか、「まあるい目をしたいい子だよ」など、次から次に浮かんできます。

 この「いいこ」人気にかげりが見え始めたのはなんといっても、かなり昔の話で覚えている方も少ないとは思いますが、「ワンパクでもいい。たくましく育ってほしい。」という、例のハムのコマーシャルの頃からです。そして「いいこ」の凋落を決定的にした張本人は他でもないあの松田聖子です。

 「いい子ぶりっ子」という言葉がそれまでの「いいこ」を栄光の座から引きずり降ろしてしまったのです。

 確かに「いいこ」という言葉からは従順さとか、分別とかいったイメージが浮かんできます。「ワンパク」とか「たくましく」とかいうのとはちょっとかけはなれています。おおげさな言い方をすれば、「いいこ」は体制派、「ワンパク」は反体制派ということになるでしょう。ハムのコマーシャルが流れ始めた頃の社会情勢を考えれば、体制派よりも反体制派のほうが何となくカッコよかったかもしれません。

 一方、「いい子ぶりっ子」のほうは、体制派も反体制派もありません。日本人は「ぶりっ子」、つまり本当はそうじゃないのにさもそのようにふるまうことがきらいな、あるいはできない民族なのです。ですから、決して「いい子」がきらわれたわけではなくて、「ぶりっ子」のほうがきらわれたというのが正解なのです。松田聖子はきらわれませんでしたけど・・・。

 さてここで我が育児講座としましては、いつものへそまがりを発揮して、この「いい子ぶりっ子」、特に「ぶりっ子」を弁護しようというのであります。

 日本人は本当はそうじゃないのにさもそのようにふるまうことがきらいな、あるいはできない民族だといいましたが、それを説明するのには「本音と建前」という言葉が便利です。よく世間では、「本音は別のところにあるのだけれどそれは隠して建前で行動するというのが日本人の特性だ」と、特に外国人から指摘されます。もしその通りだとするなら、私の言っていることと全く逆になってしまい、「いい子ぶりっ子」も日本人の特性だということになってしまうかもしれません。。でもそれは大きな間違いです。

 外国人が「日本人の行動には本音と建て前がある」と指摘するというのは、「日本人には本音と建前がある」ことがばれてしまっているということなんですね。本音があることを徹底的に隠して行動するのが建前ですから、外国人にこう言われてしまうということはとりもなおさず、「日本人は本音をかくしておくことができない」、「いい子ぶりっ子はできない」ということなのです。

 もしこれを交渉ごとにあてはめるなら、本当は本音と建前があるとしても徹頭徹尾建前だけで交渉すべきなのに、ちょっと窮地に追い込まれると「いや、これはあくまでも建前で言ってる訳でして・・・」な〜んて正直に白状してしまうから、交渉がうまくいくはずはありません。相手にしてみれば、それじゃあ建前なんかどうでもいいから早く本音を出してくれということになります。要するに切り札のない交渉になってしまうわけです。日本の外交を見ているとよくわかるでしょう。

 外交だけではありません。国際化が当たり前になった現代では、どんな職業についていても国際的な仕事をせざるをえないような情勢になっています。そんなとき「本音と建前」を惜し気もなく振りかざしていたら、外国との交渉では押されっぱなしということになりかねません。これからの子どもたちに要求されるのは、「いい子ぶりっ子」のできる日本人になることなのです。それも中途半端な「いい子ぶりっ子」ではなく徹底的な「いい子ぶりっ子」です。
 
 「私たち日本人は徹底的に本音だけでおつき合いしています。」という建前を、最後の最後まで本音だと言い張れる、そしてそれを相手にも信じさせることのできるだけの強い「いい子ぶりっ子」になってもらわないと困るのです。「エーッ!ウッソ〜。ホントニ〜?ヤアダ〜。アタシッテ〜、ソンナノデキナ〜イ。」な〜んていうレベルの「いい子ぶりっ子」じゃ困るのです。

 さあ、今日から早速我が子の「いい子ぶりっ子」トレーニングを始めましょう。




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2015年09月17日

育児講座15「集団保育」

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   第15回  「集団保育」

 戦後生まれの私は、集団学童疎開とか、もっと悲惨な集団自決ということは知識として知っているだけです。子どものころに集団登校というのは経験しましたが、それが何のためだったかは忘れてしまいました。今、集団という言葉からは、「どこそこの国で誰それが武装集団に襲われた」というようなテロ行為を思い浮かべてしまいます。集団という言葉にネガティブなイメージを抱いてしまうのは私の偏見でしょうか?

 話は違いますが、集団という言葉を英語にするとき、グループという言葉とチームという言葉のどちらがふさわしいでしょう?どちらもほとんど日本語みたいなものですが、これもまた独断と偏見で、私自身はグループという言葉のほうがふさわしいと考えています。チームというのはきちんと組織化され、役割分担を決めて自分たちで運営していくもの、グループというのはそういったものがない、ただの人々の集まりという勝手な連想があるからです。
 
 この二つの偏見を重ね合わせると、集団という言葉から思い浮かぶのは群(むれ)という言葉です。そうです。あの動物の群です。
 
 動物にだってきちんと組織化され、役割分担を決めて自分たちで運営される群があると言われそうです。むしろ動物たちにはそのような群のほうが多いかもしれません。そのことはよく承知しているつもりですが、こればかりは私自身の独断と偏見なのでいたしかたありません。

 さてここで話はまた大きく変わります。

 人間は集団生活を営む動物だとよく言われます。動物となんら変わりはないと思うのですが、人間の場合にはこれを「群(むれ)」とは呼ばず、特別に「社会」と呼びます。子どもが集団生活になじんでいくことを社会性の発達と言います。社会性というのは人間として生きていく上ではとても大切なことです。社会性が発達することを決して悪いことだとは思いません。

 前置きがとても長くなりましたが、以上は集団という言葉に対する私の単なる思いこみにすぎません。こういう私が集団保育というものを考えるとどうなるでしょう?

 いわゆる「親離れ」というのは3歳頃から始まります。集団保育というのは親から離れなければできない、というより親から離れた子どもたちを集めるのが集団保育ですから、3歳前の集団保育というのは無理やり親離れをさせるということもできます。これはとても不自然なことです。無理やり親から引き離された子どもの心は傷つき、情緒は不安定になるでしょう。

 なんてなことを私が本気で言っているなんて、少なくともこのページを何度か読んだことのある読者の方だったら、決して思わないでしょう。

 確かに、3歳頃から親離れが始まるというのは本気ですが、そもそも親離れなんていう言葉自体がおかしいのです。私に言わせればこれは親離れではなくて、保護者離れなのです。子どもにとっては3歳までは保護者が絶対に必要なのですが、それはなにも親じゃなくてもいいのです。やさしく見守って、安全を確保し、危険から遠ざけてくれ、いざというときには逃げ込むことができ、そして食べ物をくれる「者」がいればいいのです。

 その「者」であるかどうかがわかり始めるのが人見知りです。自分の保護者としてふさわしいかどうかを認定するわけです。認定されていない人の前では危険を察知して泣くのです。生後間もなくから保育園に預けた子は人見知りをしないとよく言われます。もちろん個人差はありますが、人見知りをしない子は、多くの保護者に恵まれてほとんどの大人を保護者だと信じ切っているからとも言えるのです。ですから、保育園に行っていない子でも、安全に対して寛容な子はあまり人見知りをしないのです。

 3歳までの子どもには保護者さえいればよいとは言いましたが、もちろん、親子の情、親子の愛ということが昔から言われているのは十分承知していますし、そういうものが存在することも当然理解しています。でもそれは一つのコミュニティ全体が保護者として子どもたちを見守り、育てていこうという暗黙の合意があった時代の、その合意の中での親子だったと思うのです。

 現代のように子育ての責任が親だけに集中してしまうような時代には、親離れという言葉は親の責任や負担をますます増大させてしまうような気がします。

 家族といるときは親対子、集団でいるときは保護者対子ども。子どもをいとおしく思う気持ちが同じならば、子どもはどちらも大好きでしょう。どちらがいいかなんて、大人の勝手な思いこみなのです。



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2015年09月03日

育児講座14「テレビとこども」

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第14回  「テレビとこども」

 もう皆さんの記憶からはほとんど消えてしまっていると思いますが、あの湾岸戦争のときには、「戦争のテレビ実況中継」という前代未聞のことが起こりました。今や、インターネットがテレビに替わってニュースや情報をオンタイムに届けてくれる時代になっていますが、2歳3歳のこどもがインターネットを自由に操れるということもないでしょうから、テレビやビデオ、DVD等がこども達に情報を届けていると言ってよいでしょう。

 これらの情報はテレビにせよパソコンにせよモニター画面を通して伝わってくるものなので、一括して「テレビ」としてお話を進めようと思います。

 インターネットを操作できる年齢のこどもでは、メールやフェイスブック・ライン・ツイッターといったSNS、それに悪質なサイトなどが問題にされますが、小さなこどもにとってはテレビがどのような影響を及ぼすかということが問題になることがしばしばあります。そんなとき、多くの場合には、こどもの視力の発達にとっての影響と子どものコミュニケーションの発達にとっての影響という二つが採り上げられます。まずこれらを順番に考えていくことにしましょう。

 視力というのはもちろん成長にともなって発達していくものですが、目の網膜に刺激が到達するということも大切な発達の要素なのです。視力が完成した大人でも、網膜への光の刺激がないと、視力はあっという間に落ちてしまいます。よく落盤事故などで暗闇に閉じ込められてしまった人が救出されるときに目隠しをしていますが、あれは急に光を浴びて網膜がいたまないようにするという理由の他に、落ちてしまった視力を徐々に取り戻すという理由もあるのです。

 こう考えると、テレビから与えられる光の刺激は網膜を刺激して視力の発達を促す力をもっているということになります。実際、テレビの映像から流れる光の刺激は、自然の中で目に見えるものよりもはるかに強いといえるでしょう。ですから、テレビを見ていれば見ていないよりも早く視力を発達させることができるでしょう。

 しかし、過ぎたるは及ばざるがごとしのたとえどおり、強過ぎる刺激は未発達な網膜を逆に傷つけてしまうかもしれません。また、光の強弱があまりに激しく変化するとけいれんを引き起こしてしまうことは、テレビで「ピカチュー」を見ていた全国の多くのこども達が一斉にけいれんを起こしてしまった事実でよく知られています。でも、一つ一つの映像の刺激が強過ぎるということはありませんから、要は長時間見ることで網膜を疲れさせないよう気をつけるということでしょう。

 ではどれくらいの時間が適当かという話になりますが、これを決めるのはとてもむずかしいのです。このあとのコミュニケーションの話とも絡んできますので、最後にまとめてお話することにします。

 さて、コミュニケーションの発達とテレビの話ですが、テレビからは一方通行的な情報だけが流れてきて、こちらからの呼びかけには応えてくれない、だから子どもがテレビばかり見ていると人とのコミュニケーションが上手にとれなくなってしまう、言葉の発達が遅れる、ということが言われます。言っていることは確かに間違いではないでしょう。

 でも、こういう話というのはいつでも極端過ぎるきらいがあります。

 たとえば3歳の子の生活を考えてみます。仮にこの子が12時間寝て、食事や排泄など生きていく上で不可欠なことのために5時間使うとします。するとこの子の自由時間、3歳の子であればほとんどが遊ぶ時間ですが、自由時間は7時間ということになります。この7時間をすべてテレビを見る時間として使ったら、コミュニケーションの問題は生まれるかもしれません。しかし実際には7時間の間まったく子どもとのコミュニケーションをせずに放っておくことは不可能でしょう。

 テレビに子守りをさせているから、コミュニケーションがおろそかになり言葉の発達が遅れるのではなく、もともとコミュニケーションに自信がなかったり、コミュニケーションの方法がわからなかったりということで、子どもがテレビに熱中しているのをいいことに、子どもとのコミュニケーションから逃げている親のほうにこそ問題があるというべきでしょう。

 またある程度大きくなった子で、自分でテレビを操作できるようになって、1日中テレビばっかり見ていると嘆く方もいらっしゃいますが、テレビはもともと見てもらうために放送を続けているわけで、途中で見るのをやめて下さいなんていうテレビがあるわけはないのです。視聴者の目をくぎづけにするために日夜努力を続けているテレビに向かって、「うちの子がテレビから離れない」などと文句を言ってみたところで筋違いもいいところです。

 子どもは親よりもテレビの方が面白いからテレビを見るのです。面白いというと語弊がありますが、親と遊ぶほうが楽しくて心地よければ子どもはテレビなんか見向きもしません。テレビから離れさせたかったら、親が自分でスイッチを切ることです。そしてテレビに子どもを取られたくなかったら、テレビより楽しい親になることです。親がちっとも楽しくないから子どもはテレビを見るのです。

 ちょっと言い過ぎたかな?



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2015年08月20日

育児講座13「言葉」

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第13回  「言葉」

 アメリカの笑い話です。

 3歳になっても一言も言葉をしゃべらない男の子がいました。家族は大変心配してあちこちの医者に見せますが、どの医者も「異常は見つからない、そのうちしゃべるだろう」と言うばかりです。そんなある日、家族がみんなで食事をしているときでした。テーブルに出されたマッシュポテトを見るやその男の子は突然、「ぼくはマッシュポテトがきらいだ」と言ったのです(もちろん英語で)。びっくりしたのは家族です。口々に「そんなによくしゃべれるのにどうして今までしゃべらなかったの?」とたずねました。男の子は平然と答えました。「だって今までマッシュポテトが出てこなかったんだもの。」

 アッハッハと笑ってしまえばそれだけの話なのですが、へそ曲がりの私としてはここでどうしても一言言いたくなってしまうんです。それは、今までマッシュポテトが出てこなかったのに、初めて見たマッシュポテトをなぜ「マッシュポテト」と言えたかということです。今までにマッシュポテトを見たことはないけれど、マッシュポテトという食べ物があって、色はこんなだとか、見た感じはこうだとか、皿に盛りつけるときはこんなふうにするとか、マッシュポテトに関する情報が山ほど入っていて、マッシュポテトを見たとたんに、「ああ、これが話に聞いていたあのマッシュポテトに違いない」と直感したのでないかぎり、誰も「マッシュポテト」という言葉を発することはできないはずなのです。

 そしてまた別の見方をすれば、今ここでお話したような経過をたどって、初めて見たマッシュポテトを「マッシュポテト」と言ったときに、それを前から知っていた人と初めて見た人との間に共通の認識が芽生えるのです。言葉というものは自分と他人の経験や概念を共通にするためにあるのです。これをコミュニケーションといいます。

 逆のこともいえます。今ここに一台の電話があったとします。日本人は「電話」と言うでしょうし、アメリカやイギリスの人は「テレフォン」と言うでしょう。言葉は違ってもそれぞれの人が頭に思い描いているものは同じです。これもコミュニケーションといってよいでしょう。もしアメリカ人やイギリス人がごく普通に使われている意味で「トースター」なんて言ったら大変です。これではコミュニケーションにはなりません。

 さて、もう一度初めの笑い話に戻りましょう。この男の子は3歳になるまで一言も言葉を発しませんでしたが、家族と一緒に食卓を囲むなど、家族とのコミュニケーションはとれていたのです。もちろん言葉がない分コミュニケーションは不自由なものだったでしょうが、逆に言葉がない分みんないろんな方法でコミュニケーションをとろうと努力したのではないでしょうか。

 子どもを取り巻く最近の言葉の状況を見ていますと、どうも言葉そのものが重要視されていて、言葉がコミュニケーションの手段であるという点がおろそかにされているように思えます。言葉は手段に過ぎないのだけれどとても便利な手段なのです。だから言葉が自由に操れるようになると、とても簡単に多くのコミュニケーションがとれるようになるのです。言葉そのものよりもコミュニケーションをとりたいという気持ちのほうが大事だということがわかれば、赤ちゃんや子どもの言葉との関わり方も多少は違ってくるような気がします。

 赤ちゃんや子どもは伝えたいことをいっぱい持っています。それを言葉以外の方法で一所懸命表現しているのです。私達大人だって赤ちゃんの頃にはそうやってコミュニケーションをとろうとしていたはずなのに、あるいはもしかしたら「赤ちゃん語」なんていう世界共通語かなんかがあって、その赤ちゃん語を使えば世界中の人たちと自由にコミュニケーションがとれたはずなのに、いつの間にかいわゆる「言葉」に毒されて(?)しまって、「言葉」でしかコミュニケーションがとれなくなってしまったのかもしれません。

 ママの語りかけや、絵本の読み聞かせは確かに赤ちゃんや子どもの心を豊かにするでしょう。そしてそれを大人たちと共有したいという気にさせるでしょう。その気持ちをどんどん引き出してあげるためには、一方通行の語りかけや読み聞かせだけではなく、赤ちゃんや子どもからの言葉以外の働きかけに気づき、そして応えてあげることなのです。

 こうやってコミュニケーションの喜びを知った赤ちゃんや子どもは、それを最も容易に実現してくれる「言葉」の威力に気づき、知らず知らずのうちに言葉を身につけていくことでしょう。でもせっかくの世界共通赤ちゃん語を失ってしまうのは惜しい気もしますけどね。



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2015年08月13日

育児講座12「トイレット・トレーニング」

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第12回  「トイレット・トレーニング」

 トイレットトレーニングについては、この講座の第6回で、しつけかトレーニングかということでちょこっとだけ触れました。今回はこのことをもっと掘り下げて考えてみたいと思います。

 私たち団塊の世代がご幼少のみぎり(もう70年近く昔の話です)、当然おむつをさせられてたわけですが、その当時は1歳までにおむつをはずせなかったら母親失格だっていわれてたんですね。現代のトイレット・トレーニングでいわれる「3歳までにあるいはそれから」に比べたらびっくりものですが、もっとびっくりすることに、中央アフリカのウガンダっていう国では、生後2週間までに子どもの排泄のサインがわかるようにならなきゃ母親失格だっていわれてるんだそうです。

 ウガンダっていう国は赤道直下の国だから当然おむつなんかしてないんですが、生まれてしばらくすると母親は赤ちゃんの排泄のサインがわかってしまって、赤ちゃんが排泄しそうになるとさっとからだから赤ちゃんをはなすんだそうです。

 この話を聞いて、その当時出演してたテレビの育児番組で「あなたはいつ赤ちゃんのおむつはずしに成功しましたか」っていうアンケートをやってもらったら、なんと生後3週間っていうのがトップでしたね。なんでもその人の家には代々伝わる秘伝があるそうで、その方法でやるとあっというまにおむつがはずせるんだそうです。

 日本人だってやればできるじゃないか!

 私は感動しましたねえ。だって大人が勝手に発明して赤ちゃんに迷惑をかけているおむつなんですから、少しでも早くおむつから解放してあげるのが大人の義務だと思うんですよね。だってそうでしょう。あんな暑苦しいものを一日中からだに巻きつけられて、赤ちゃんがうれしいはずはありませんから。

 で、それ以来私は、何が何でもおむつは早くはずせっていうのを持論にしてるんですけど、それは現代のトイレット・トレーニングの主流からははずれてしまうわけです。

 というところで、トイレット・トレーニングとは何かっていうことを考えてみようと思うんですが、そもそもこの言葉自体子どもを馬鹿にした言葉だから、私は絶対「おむつはずし」っていう言葉にこだわるんです。

 おむつはずしには大きくわけて3つの方法があります。まず赤ちゃんの排泄のサインに気づいて大人の責任ですべてを処理しようとする方法(ウガンダ式)。次にある程度は赤ちゃんのサインを必要とするが、そうでなくてもおまるや便器にまたがらせると排泄をしてしまうように条件反射を利用する方法(旧日本方式)。そして最後が現代の主流、子どもがおしっことかうんちという単語を覚え、次いで尿意や便意を感じている様子が見られたらそれを上手に誘導してあげて自律的に排泄を促すといういわゆるトイレット・トレーニング。

 そしてこの順番におむつはずしの年齢はどんどん遅くなります。おむつはずしが遅くなるのは大人の怠慢だと思います。

 だけどトイレット・トレーニングの推進者たちはこう言うのです。
「赤ちゃんには生まれたときから人格があり、意志があります。それは最初から完成されたものではなく、発達によってより完全なものへと導かれていくのです。この発達の段階に合わせて子どもたちのお手伝いをしてあげることが大人に課せられた崇高な使命なのです。」

 「崇高な」ってのは私が皮肉って付け足した言葉ですけど、それを省いたとしても名文句ですね。感動ものですね。この理屈でいくと条件反射を利用して赤ちゃんのおむつはずしをするなんて、サーカスの動物を調教するならいざ知らず、人格と意志を持った赤ちゃんに対して失礼きわまりない行為ですってことになってしまいます。

 なら聞きますけど、赤ちゃんの人格も意志も無視しておむつなんてものを発明した大人って何なんですか?

 赤ちゃんの身にもなってごらんなさい。大人たちの美しい環境を守るという崇高な使命のために、大人たちがそれと気づいておむつを取り替えてくれるまで、おしっこやらうんちをからだにまとわなきゃならないなんてとてもたまったもんじゃありません。いっそおしっこもうんちも出たとたんにどこかへ流れてってくれたほうがどんなに気持ちいいかしれません。

 私がおむつはずしは早いにこしたことはないと主張する理由はそこにあるのです。

 とはいっても、世の中がすべてこの非人間的なトイレット・トレーニングにおおいつくされてしまっていますから、条件反射といったってどうやっていいかわからない。ましてや赤ちゃんの排泄のサインがどうなっているかなんて、まさに先祖代々伝わる秘伝でもなければわかりゃしません。

 そういえば、テレビ番組のアンケートでこの秘伝のことを教えてくれた方にどんな秘伝か訊くことができませんでした。私はテレビ局のスタジオにしか行きませんでしたが、秘伝の葉書は番組製作会社のデスクの上にあって、住所もお名前もわからなかったのです。もっとしつこくディレクターに頼めばよかったと、そのことが今でも悔やまれます。

 とにもかくにも現代ではトイレット・トレーニングの掟に従うしかないわけですが、だったらせめて、おむつを替えるときだけでもなるべく長く新鮮な空気にお尻をさらしてあげるとか、おしっこやうんちを示す言葉を発するようになったらなるべく早くトレーニングを始めるぐらいの配慮があってもいいんじゃないかと思うのです。

 今や世の中ほとんどの赤ちゃんが紙おむつをあてられています。おむつをはずす年齢が遅くなれば遅くなるほど、紙おむつのメーカーは儲かるわけです。おむつはずしを遅くしているトイレット・トレーニングを支える理論的研究は、小児科医や児童心理学者や発達心理学者などによって行われていますが、それらの中には紙おむつのメーカーがスポンサーになって行われた研究もたくさんあるのです。

 え?お前にはスポンサーがやってこなかったのでひがんでこんなことを書いてるんだろうって?そんなことはありませんよ!ったくう・・・。




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2015年08月06日

育児講座11「男の子と女の子の育て方」

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第11回  「男の子と女の子の育て方」

 男女平等思想の広まりと深まりの中で、男の子も女の子も同じように育てられるべきだという考え方と、子どもにとって父親の存在と母親の存在というものは別々の意味を持つものなのだから、男の子にはそれなりの、そして女の子にもそれなりの育て方があった方がよいという考え方とが論じられることがあります。

 これらの議論の前提となっている「男女平等」ということを通して、男の子と女の子の育て方を考えてみたいと思います。
 
 日本における男女平等は、男女雇用機会均等法の成立や中学校の家庭科男女共学という形で少しずつ実を結びつつありますが、現実には今の世の中完全に男社会だと言わざるを得ません。女性はその中で永年低い地位に甘んじてきたわけですが、進歩的な女性が男社会にくさびを打ち込む形で女性の地位向上に努力した結果、少しずつながらも女性の権利が拡大してきたわけです。これから先も完全な男女平等へ向けて女性の権利闘争は続いていくでしょうし、男性の側からも男女平等を真剣に考える人々が出てくるでしょうが、女性の権利の拡大によって到達する男女平等というものが本当の意味での男女平等なのかと考えてしまうことがあります。

 育児相談をやっていますと、赤ちゃんが小さいうちは発育がどうのとか栄養がどうのという相談が多いのですが、子どもが一歳半を過ぎるころから、言葉の問題や性格の問題が増えてきます。いつまでも人見知りがなおらないとか、子どもが大勢集まっているところへ入っていけないとか、人におもちゃを取られても取られっぱなしだとか、内気というか消極的な子どもは親を悩ませてしまうわけです。特に男の子の場合には「これから先の競争社会で生き抜くには余りにも頼りない」と思って不安になってしまうようです。

 ところがある時、女の子のお母さんがそういう相談を持ちかけてきたので、「どうして内気じゃいけないの」と聞きましたら、「これからは、女性も社会に出て男性に互して生きていくのだから、そのためにはもっと外向的で積極的にならなければいけない」という答えが返ってきました。

 「まさにその通り、あなたの信念を貫いてがんばんなさい」と言いたいところなんですが、こういう考えってなんかおかしいと思いませんか。

 外向的・積極的っていうのは、昔ながらの「男らしく、女らしく」でいえば、どっちかっていうと男の属性に入っていたものです。女の子が「男らしく」なって男社会に入っていくという図式は、たとえ男と女が同等の権利を持ち、同等の力量を発揮できるようになったとしても、その社会は、生物学的に男であって社会的にも男である「男」と、生物学的には女だけれど社会的には男になってしまった「男」によって動かされる「男」社会なのではないでしょうか。

 男女平等というのは、女が「男」になることで作られるものじゃないと思うのです。

 男も女も同じになるということと男女平等はまったく別のものなのです。男は男、女は女だからこそ男女平等の意味があると言った方が正しいでしょう。男の子と女の子を同じように育てたからといって男女平等が実現するわけではないのです。

 それよりもっと大切なのは、子どもたちが育っていく環境がどれだけ男女平等を実現しているかでしょう。そう考えると、今の環境が男女平等には程遠いことに愕然とします。

 子育てする夫婦がいくら平等の関係にあっても、世の中全体が全然平等じゃありませんから、いくら男の子と女の子を同じように育てても、子どもの心には男女不平等の現実のほうが強く焼きついてしまうでしょう。だったら、男女平等の前提に立った子育てより、不平等の現実を踏まえて、平等の実現に努力する親の姿、あるいは社会の人々のそれこそ後ろ姿を子ども心に焼きつけた方が、その子が自分でものを考えるようになってから大きな力になるはずだと思うのです。

 生物学的には、オスがいてメスがいるのは子孫を残すためです。生物としての人間とて例外ではありません。男がいて女がいるのは子どもを産むためであって、父性だの母性だのとは関係ないことのはずなのです。この生物学的な性的役割分担(立場としては平等)と社会の中での性的役割分担(今まではこれが差別だった)をきちんと整理してから男女平等を捉えないと、男の子と女の子の育て方も見当違いの方向に進んでしまうかもしれません。

 戦前の「男は兵隊、女は銃後」でもなく、高度成長期の「男は会社、女は家庭」でもない「男は男、女は女」があってもいいのではないでしょうか。



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2015年06月18日

育児講座 10「早期教育 パート2」

oxfam.jpg 育児講座とはいっても決して堅苦しいものではありません。また、直接育児に役立つような知識というわけでもありません。世間でまかり通っている育児の情報に「ホントかいね?」と疑問を投げかけ、ちょっとした考え方の変化で育児が楽しくなるようなそんな記事を掲載しています。


第10回  「早期教育 パート2」

 前回のこの講座では、子どもの発達、あるいは広い意味での教育を考える上で、「引き出す」と「付け加える」という2つのキーワードを提示しました。今月はさらに「失う」というキーワードを追加して話を続けてゆきたいと思います。

 前回も引き合いに出しましたが、日本人の子どもでも、外国で生まれ、育てば、その国の言葉が自由自在に話せるようになります。日本人だから日本語しかしゃべれないというわけではありません。もし、火星語というものがあったら、火星で生まれ、育った子は火星人の言葉だってしゃべれるでしょう。子どもの言葉の能力には無限の可能性が秘められているのです。その可能性を引き出すところに教育の意味がある、ということも前回お話しました。

 日本の国際化が進んで、2か国語や3か国語を話せる子どもも決して珍しいものではなくなりました。5か国語や7か国語というと今でもびっくりさせられますが、いずれにしても言葉に関する無限の可能性の中から複数の言葉が引き出された成果はすばらしいものがあります。

 でもへそ曲がりな見方をすれば、もっと多くの可能性の中から、それだけしか引き出されなかったということでもあります。引き出されなかった多くのものを失ったということでもあるのです。

 無限にあるもののすべてを引き出すなんて不可能だといわれるでしょう。そうです。不可能なのです。だから子どもたちは多くのものを失うのです。子どもの成長や発達というのは、実は何かを獲得することではなくて、何かを失うことだと気づいてほしいのです。地球語、宇宙語全部しゃべれたはずの赤ちゃんがそのほとんどを失って、やがて一緒に暮す大人たちとの共通の言葉だけしかしゃべらないように成長したんだって考えてほしいのです。そして言葉だけでなく、私たち大人が子どものためにと何かを選んだとき、子どもは選ばれなかった多くのものを失うということに気づいてほしいのです。

 失うのだったら、なるべく遅いほうがいいかもしれません。
「そんなことはない。成長してからでも多くの言葉を身につける人だっているじゃないか。」
そんな反論も聞こえてきます。でもこれは身につけるのであって、引き出すのとは違います。付け加えているのです。

 「引き出そうが、付け加えようが、子どもの能力が高まることに違いないじゃないか。能力が高まることによって、子どもはきっと幸福になれる。」

 多分そうでしょう。能力が高いことによって、その子は多くの利益を享受できるでしょう。そして幸せを感じるでしょう。近い将来なら、幼稚園や小学校・中学校の入園・入学試験には有利に働きそうですし、そのまま進めば高校・大学の入試にも有利かもしれません。いつも先へ先へと目を向けるのが早期教育の宿命なのですから…。

 この「先へ先へ」ということが子どもの「今」を踏みにじっていることも、「失う」ことと同じように忘れられがちなことです。

 子どもには「今」しかありません。「今」だけを貪欲に楽しんでいます。子どもは飽きっぽいといいますが、あれは飽きるのではなくて、「今」を一番大事にして、「今」を思う存分満喫するから、子どもは過去へのこだわりも見せず、いつでもニコニコしていられるのです。未来への不安もなく、力強く成長できるのです。

 こんなことをいうと、必ず反論が出ます。
「子どもは今のことしか考えない。だからおとなが未来のことを考えなければ…」と。

 この反論には一理あります。でも、とても傲慢な考えだと思います。おとなたちが子ども自身の未来を考えるのだったら、子どもの人格を無視することになります。子ども自身の未来は子ども自身に決めてもらえばいいのです。

 おとなたちが考えなくてはならない未来というのは、子どもたちが将来大きくなって暮らしていく環境、この地球の未来ではないでしょうか。

 どうも最近の早期教育熱を見ていると、子どもの無限の可能性を花開かせること、子どもの未来をバラ色に輝かせ、大きな夢を用意するためには、「将来のため、未来のため」とかけ声をかけながら、子どもにとってもっとも大切な、そして子どもたちの一番好きな「今」をどんどん奪い去って、「過去」をどんどん作り出しているように思えます。「過去」という言葉ほど子どもに似合わない言葉はないでしょう。


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2015年06月11日

育児講座9「早期教育 パート1」

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第9回  「早期教育 パート1」

 古今東西、タイムマシンを題材にした物語というのは山ほどあって、いわばSFの定番商品みたいなものです。時間の流れを変えられたら、あるいは、時間の流れの中を過去・現在・未来と自由に泳ぐことができたらというのは、昔から人間が抱いて果たせない夢や欲望の一つです。

 特に未来というのは、こうなるだろうという予測や、こうするはずだという予定は立てられても、それが実現するという保証のない極めて不安定な代物です。それなのにたいていの人間が未来に夢を抱き、現在よりも良いものを期待するというのは、未来という言葉が可能性という言葉とオーバーラップするからでしょうか。

 「子どもは未来である」ということもよくいわれます。子どもは無限の可能性を秘めて生まれてくるという期待なのでしょうか。胎児や新生児にかなりの能力(可能性)がすでに備わっているということを、今や疑う人はいないでしょう。

 その能力を目覚めさせ引き出してあげることは能力の限界に挑んで夢をかなえてあげることだという、希望に満ちた前提のもとに早期教育は成り立っています。「いずれ成長すれば徐々にそなわってくる能力なんだから、早期教育によって本来ないはずの能力を付け加えなくても・・・」などと言ったら、言いがかりだと非難されるでしょう。

 ところで、日本人の子どもでも、イギリスやアメリカで生れて、そのままその国で成長すれば英語がペラペラになります。ドイツで生れ育てばドイツ語が、フランスでならフランス語が、というふうに、言葉に関していえば、日本人だから日本語しかしゃべれないというわけではありません。つまり、子どもの言葉の能力には無限の可能性が秘められているということがいえます。

 この無限の可能性はきっと言葉だけじゃないでしょう。いろいろな分野に子どもは無限の可能性を持って生れてくるに違いありません。だったら、その可能性をすべて、それが無理なら少しでも多く、それも無理ならせめて最も顕著なものを伸ばしてあげたいと願うのは、親としての人情というものです。

 事実、近代教育学というのは、「内的能力の全面開花」ということを謳い文句にして発展してきたものなのです。そうすることが教育者あるいは大人の子どもに対する責務であり、そうすることによって大人は子どもたちに素晴らしい未来を提供することができると信じて・・・。

 これは理想論としてはとてもすばらしいものです。でも現実には運用面での問題があって、「内的能力の全面開花」が、日本の一部の人々の間でいつの間にか「内的能力の早期開花」(早期教育)と取り違えられてしまったのです。もちろん「全面」という概念が全く消えたわけではなく、「少しでも早く能力を引き出して、また別の能力も引き出そう」という考え方で残っています。「少しでも早く、そしてなるべく多く」というわけです。

 なるほど、なるほど。そして子どもたちの未来は明るく開ける、そしてその未来は我々が提供したものだというわけですね。なかなか結構。

 だけど!

 近代教育学で言う「全面」というのは「全部一緒にバランスをとりながら」っていう意味なんですね。他の能力とのバランスも考えずに、一個一個の能力をどんなにたくさん引き出して花開かせてあげても、トータルな人間としての明るい未来はやってこないんですね。これが一つの間違いです。

 もう一つの間違いは、特別なことをしなければ教育じゃないっていう誤解ですね。学校へ行く、塾へ行く、何とか教室へ通う、こういうことが教育だって信じ込んでいる恐ろしさを是非考えてほしいと思うのです。

 こういうことって「引き出す」のじゃなくて、「付け加える」ことなんです。付け加えることが全部悪いとはいいません。私たち大人が子どもたちに付け加えることってけっこう沢山ありますからね。それが「文化」っていうものなんですから・・・。でも文化っていうのはいわゆる「教育の場」で伝えていくものじゃないんですね。そこんところをきちんと区別してほしいわけです。

 今回は、子どもの発達、あるいは広い意味での教育というものの中で、「引き出す」と「付け加える」という2つのキーワードを提示しました。

 早期教育と子どもの発達とは切り離して考えることはできませんからブログの中ですべてを語ることはできません。でも、この2つのキーワードをステップにして、次回また同じテーマで早期教育の別の側面を考えてみたいと思います。


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2015年05月28日

育児講座 8 「マザーズコンプレックス」

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第8回  「マザーズコンプレックス」

 マザーコンプレックス(マザコン)といえば、“母親に対する、息子の複雑な心理状態”をさす言葉だなんてことはいまさら言わずもがなですが、今日の話はマザコンではないんです。マザーズコンプレックスという話です。英語で書けば "mother's complex"、“母親に対する、息子の複雑な心理状態”という当たり前の見方ではなく、“(娘も含めた)子どもに対する、母親の複雑な心理状態”として考えてみます。マザーに対するコンプレックスではなく、マザー自身のコンプレックスという見方です。

 すべての親が、わが子に幸せになってほしいと願っています。できるだけのことをしてあげたいと念じています。それが親の愛というものです。ところで生まれたばかりの赤ちゃんはどうでしょうか?自分で幸せになりたいと願っているでしょうか?もちろんそんな高等な願いはまだ芽生えていません。でも少なくとも、生きたいという欲求は持っています。だから、誰にも教わらないのに生まれたとたんに自分で呼吸を始め、誰にも教わらないのに乳首をくわえればお乳を吸って、誰にも教わらないのに飲み込むことができるのです。

 この生きたいという欲求はやがて、心地よく生きたいという欲求に発達していきます。泣いたり、笑ったりするようになるのが、その証しです。そこから、幸せに生きたいという段階までは、もう時間の問題です。

 この子ども自身の“幸せに生きたい”という願いは、今、子育ての場でどこへ行ってしまったのでしょう。

 これこれこうすることが子どもの成長のためにいい、子どもの発達のためにいいという情報が世の中にいっぱいあふれています。それらの情報を知ることは決して悪いことだとは思いません。でもそれをすぐさま実行に移すとなると、話は別です。

 子どもは自分自身で“幸せに生きたい”というサインや要求を当然出してくるのです。いろいろな情報は、子どもが要求を出してから、その要求に沿って実行に移せばいいことだと思うのです。

 子どもの要求をすべて受け入れるのは、過保護だ、甘やかしだといわれるかもしれません。本当にそうでしょうか?

 要求が通ったら、子どもはとても嬉しいでしょう。心安らぐでしょう。心満たされるでしょう。何の代償もなく、全面的に受け入れられる経験は満足ということを教えてくれます。親はわが子の要求はすべて受け入れるつもりでいましょう。そのことが逆に自立心や自制心を引き出すことに気づきましょう。

 ただし、(ここからが大切です)要求されていないことをするのを一切やめましょう。要求されてもいないことをするのを、過保護ともいい、甘やかしともいうのです。子どもは要求が通ったときの感動を味わうことができません。要求のしかたを学ぶこともできません。いつしか人がやってくれるのを待つようになります。そのうち自分がいったい何を要求していいのかさえわからなくなってしまいます。

 それから、代償として要求を通すこともやめましょう。代償を払って要求が受け入れられても、子どもは満足を得ることができません。代償を払ったのだから当然、というわけです。

 「いい子にして診察終わったら、アイスクリーム買ってあげるからね」、診察室でよく聞く贈賄のテクニックです。こういう育てられ方をした人々が、永田町や霞ヶ関の界隈には大勢います。

 要求を受け入れることが大切なのではありません。子どもに満足感を与えることが大切なのです。それには無条件の受け入れが一番なのです。もちろん、すべてのことが要求通りに受け入れられるはずがありません。親は万能の神様ではないのです。

 受け入れ不可能なことは断固として拒むべきだと思います(でもできるだけのことはしてあげてくださいね)。要求が通らなければ、子どもは面白くありませんから、だだをこねたり、交渉のテクニックを使ったりするでしょう。そして最後に要求が貫徹すれば満足感が得られるし、要求が受け入れられなければ、次は別の交渉テクニックを使うかもしれませんし、要求のレベルを変えてくるかもしれません。

 そして前回の育児講座でお話しした「顔色をうかがう」という技術も獲得するかもしれません。

 こうやって、子どもは自分が欲しいものを見つけ、それを手に入れるために要求を自分でコントロールすることを身につけていくのです。

 これらのことを実現するためには、「待つこと」に慣れなければなりません。子どもの要求が出てくるまで待つのです。でも、人間誰でも待つのは苦手です。待っていると不安なのです。その不安が、子どもが要求してもいないことを親にさせてしまったり、“子どもに対する、母親の複雑な心理状態”に親を陥れてしまったりするのです。マザー自身のコンプレックスが、子どものマザーに対するコンプレックスを生み出しているのかもしれないのです。


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2015年05月21日

育児講座7 「子守り娘の子守歌」

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第7回 「子守り娘の子守歌」


 るんるんねんねこさっしゃりませ
  寝た子のかわいさ
  起きて泣く子の ネンコロロ
  つらにくさ ネンコロロ ネンコロロるんるん

 中国地方の子守歌を引き合いに出すまでもなく、子どもの寝顔というのはまさに天使のようです。逆にどんなにあやしてもなだめても、ギャーギャー泣かれたら、自分の子であってもにくらしくなるかもしれません。ましてや仕事として子守りをしなければならないとなったら、起きて泣く子の顔(面=つら)はにくらしく見えるに違いありません。

 西洋の子守り歌に比べると、日本の子守り歌には、「子守りの歌」と呼んだほうがふさわしいものが多いように思います。さらに、西洋では長調(明るい)で作られていることの多い子守り歌が日本では短調(暗い)で作られています

 貧しい農村の口減らしのために、年端もいかない娘が子守りとして町へ奉公に出る。まわりで同じ年格好の子どもたちが楽しそうに遊んでいるのを横目で見ながら、子どもをおぶって子守りをしながらふるさとの家族に思いをはせる。「お盆が来たらクニに帰れる。でもお盆が早く来ればまた早く町へ戻らなければならない。」(五木の子守り歌)とか、「お盆が過ぎてしまったらまたつらい子守りが待っている。雪も降るだろうし、子どもも泣くし。」(竹田の子守り歌)などは、子どもを寝かせる歌というよりは、子守り娘の恨み節という感じです。

 冒頭に掲げた中国地方の子守り歌も、決して我が子がにくいという歌ではありません。子守り娘が「お願いだから泣かないでおくれよ。そんなに泣いたらにくらしくなってしまうよ。」と嘆いている歌なのです。

 一方、江戸子守り歌というのは、「坊やのお守りはどこへ行った。あの山越えて里へ行った。」とあるように、子守り娘の里帰りの間、我が子の子守りをしてみたらとても大変なので、子守り娘よ早く帰っておいで。「でんでん太鼓と笙の笛」のおみやげを持って。という歌です。これもやっぱり「子守り歌」というより「子守りの歌」の部類です。

 日本の古くからの子守り歌に短調の曲が多いのは、この辺に原因があるのかもしれません。

 それではこのもの悲しい子守り歌を聞かされるほうの子どもはどうでしょう。子守り娘に同情して、いい子でねんねしたのでしょうか。いえいえそうではないでしょう。赤ちゃんは楽しいことだけが好きですから、毎日毎日こんなうらみがましい歌を聞かせられたらたまったものではありません。うんざりしてよけい泣いてしまったに違いありません。だからよけい「子守りはつらいよ。泣かずに寝ておくれよ。」という歌が広まっていったのだろうと思います。

 フルート奏者の吉川久子さんという方がいらっしゃいます。世界各地の子守り歌を集めてコンサートで演奏なさっている方ですが、吉川さんがおっしゃるには、男が歌う子守り歌には「お願いだから泣かずに寝ておくれ。寝てくれたら何でもあげちゃうよ。」という内容が多いのだそうです。その場しのぎの男の身勝手さがよくわかるという見方もできますが、「何でもあげちゃう」という決定権を男が持っている、つまり男中心社会における子守り歌ということもできます。

 悲しいことにしがない奉公人の子守り娘にはそんな決定権はみじんもありません。子守り娘には何にもあげるものがないのです。せめて里帰りのおみやげに「でんでん太鼓に笙の笛」を持ってくるぐらいのものなのです。

 とはいえ、現代社会では子守り娘はもういません。自分で我が子を寝かしつけなくてはなりません。なかなか眠ってくれなくて、時にはにくたらしく感じることもあるかもしれません。時にはぐちやうらみごとの一言もいいたいことがあるかもしれません。それでも「子守り娘の子守り歌」だけは歌わないで下さい。それを聞かされるほうの子どもの身になったら、歌うあなた以上にうんざりすることでしょう。

 「子守り娘の子守り歌」は、ちょっとしんみりしたくなった時にあなただけで聞きましょう。子どもに歌って聞かせる子守り歌はいつでも明るく夢の世界にいざなってくれるようなものにしましょう。それでもどうしても寝てくれないでぐちりたくなったら、歌ではなくて本人に面と向かって、「だいたいあんたはねえ…。」と、説教しましょう。あなたは奉公人ではなく、れっきとした親なのですから、誰はばかることなく我が子に説教することができるのです。

 「こんな小さな子にわかるはずが・・・。」
 いえいえ、説教というのは本気ですればけっこう通じるものなのです。



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2015年05月14日

育児講座6 「顔色をうかがう」

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第6回 「顔色をうかがう」

 十人十色という言葉があるように、人間の考えることは一人一人違うものです。子育てについても、一人一人違った考えでやればいい。そう言ってしまえば簡単なのですが、これが一緒に暮らしている嫁と姑、亭主とカミさんということになると、ことはそう簡単にはいきません。

 育児に専門家なんているはずがないというのが、私の持論なのですが、世の中どういうわけか専門家が大好きなようで、育児の専門家と呼ばれる人々がいっぱいいます。かくいう私自身、自分ではともかく、世間では専門家とみなされていた頃があって、テレビの育児番組に出演したり、育児書を書いたり、育児雑誌にいくつも連載をしたりという時代があったのです。

 専門家にも十人十色という言葉は当てはまって、専門家全員が同じことを言っているわけではありません。でも、専門家というのは間違ったことを言ってはいけないわけですから、それぞれ意見は違っていても、その専門家の言っていることはどちらも正しいと考えなければなりません。もしどちらかが間違っているのだとしたら、その専門家は廃業しているはずです。ところが、口角泡を飛ばして大論戦をしていた育児の専門家が廃業したという話はとんと聞いたことがありませんから、やっぱりどちらも間違ってはいないのでしょう。ということは、どちらに転んでも子育てで大きな失敗をすることはないということです。

 プロ野球では、阪神ファンのロケット風船とヤクルトファンのカラフルなビニール傘が有名ですが、嫁と姑、亭主とカミさんの戦いもこれに似たようなところがあります。たいていはどこかで仕入れてきた、ある専門家の育児知識なるもののファンになって、ロケット風船を飛ばしたり、ビニールの傘を振り回したりしているといったところです。実際に人生の荒波と戦っているのは、こどもそのものだというのに・・・。

 こういう見方で専門家たちの大激論を見ていると、応援団の大騒ぎを横目にこどもは勝手に育っていると思わずにいられません。もしかしたら、最も重大な意見の食い違いは、このような大人たちとこどもたちの間にあるのかもしれません。とはいえ、意見が違うままでは世の中に平和は訪れませんから、何とか意見を調整しなければなりません。

 日本では、「人の顔色をうかがう」というと悪いイメージが浮かんできますが、食い違った意見の調整には人の顔色をうかがう技術がどうしても必要だと思うのです。

 人の顔色をうかがって、その人の心の中を察知する。これはかなり高等な技術です。でもこれができれば、今目の前で繰り広げられている相手の行動が、どのような考えから出てきたものなのか、また、この人はこれからどのような行動に出るだろうかということが理解できるのです。もちろん、そこに悪意が働けば、相手の先手を取って、自分に都合のよい行動を引き出すことができるでしょう。

 でも子育てにおける意見の食い違いというのは、どちらもこどものためという善意でやっていることですから、相手の心が読めれば意外と簡単に和解の道が見つかるかもしれません。ただ残念なことに私達日本人は、人の顔色をうかがうという訓練をあまり受けていませんから、それがいいと思ってもすぐには実行できないかもしれません。

 今からでも遅くはありませんから、もし子育てで意見が食い違うことがあったら、相手の顔色をうかがう練習を一所懸命やってみて下さい。そしてできることなら、あなたのお子さんにも、人の顔色をうかがえるこどもに、そして人の顔色をうかがえる大人になれるような育て方をしてあげて下さい。

 大切なことは、いつも善意をもって人の顔色をうかがうようにしむけることです。善意をもって人の顔色をうかがうということは、別の表現をすれば、思いやりの心を育むということでもあるのです。

 善意だけで人とつき合っていると、自分の思いとは逆に相手に大きな負担をかけてしまうこともあります。相手の顔色がうかがえれば、ときには善意を引っ込めることが相手にとっては善意に感じられることだってあるかもしれません。それもまた思いやりということではないでしょうか。



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2015年05月07日

育児講座5「しつけられない」

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第5回 「しつけられない」

 3歳児健診の会場で「うまくしつけができないんです」という相談を受けることがあります。今回はしつけについて考えてみます。

 「しつけ」は漢字では「躾」と書きます。この字を若い人に読んでもらったら「エステティック」と読んだ人がいたそうです。漢字ではなくて「感字」ですね。

 確かに、「身」が「美しく」なるのですから、エステティックでもあながち間違いではなさそうですが、そもそもの間違いは「身」の意味を「からだ」と取ってしまったところにあるのです。この「身」は「み」、「実」の「み」なのです。虚実の実、皮をむいて実を食べるの実なのです。「中心にある本当のもの」という意味なのです。

 無駄な贅肉が取れ、小じわもなくなって美しくなるのが「エステティック」、人間の中心にある本当のものが美しくなるのが「躾」なのです。

 一方、「しつけ糸」というのがあります。裁縫などで、本格的に縫うわけではないけれど、本格的に縫うときの方向づけをするために縫い目のそばに大ざっぱに縫いつけられる糸のことです。このしつけ糸を縫いつける作業を「しつけ縫い」といいます。

 そうすると、人生の大ざっぱな(いい加減という意味ではありませんよ)方向づけをすることも「しつけ」と言ってよさそうです。

 ここで以前にも触れた「トイレット・トレーニング」に再登場してもらいましょう。

 トイレット・トレーニングは、育児書などでは「しつけ」の項目に入れられています。よく「排泄のしつけ」なんて書いてあります。ではおむつがはずせると、その子の中心にある本当のものが美しくなるのでしょうか?その子の人生の大ざっぱな方向づけができるのでしょうか?まあ一般的にはおむつをしている大人はいませんから、大人の仲間入りという方向づけはできるかもしれませんが・・・。

 今、日本の育児界では、しつけとトレーニングが混同されているように思えます。しつけもトレーニングもすべて大人がこどもに働きかけてするものだという混同です。人に働きかけてその人を導く、あるいは上達させるのはトレーニングだけなのです。しつけは働きかけるものではありません。見せるものなのです。よく「親の背中を見てこどもは育つ」といいますが、しつけとはまさに親の背中を見せることなのです。社会全体でこどもを育てるという合意があれば、世の中のすべての大人がこどもたちに背中を見せることなのです。こどもたちは親や大人の背中を見て、それについていくことで、自分の中心にある本当のものを美しくもし、人生の方向づけもするのです。

 こう考えると、こどものしつけを考える前にまず大人自身が自分の中心にある本当のものを美しくし、自分の人生の方向づけをもっていなければならなくなってしまいます。そのために大人たちは自分たちの親の世代の背中を見てきたはずです。そしてその親たちもまた自分たちの親の背中を見て育ったはずです。こうしてしつけとは親から子へ、子から孫へと自然に受け継がれていくはずのものだったのです。少なくとも明治維新から先の敗戦までは・・・。

 何しろその時代というのは「天皇陛下、万歳!」ですべてカタがつく時代だったのですから、この継承はいともたやすく行われていたのです。どの親の背中を見ても、そこには「天皇陛下、万歳!」と書かれていたのですから・・・。

 さあ敗戦のあとは大変です。親の背中に描かれていた「天皇陛下、万歳!」の価値観は崩壊し、さらに価値観の多様化が進み、親はこどもに見せるべき背中を失い、こどもはついていくべき親の背中を失ってしまったのです。

 このような時代には、背中からこどもに伝えるしつけなど存在するわけがないのです。だから、トレーニングと混同して、こどもに働きかけて何かをさせようとするのです。トレーニングといえば聞こえはよいのですが、私に言わせれば、今世の中で行われているのは調教です(このことは前にも触れました)。このような現実はこどもにとっても、また調教している大人にとっても不幸です。そろそろ新しい背中を大人たちは創造しなければなりません。敗戦後70年にもなろうという今、 そろそろ新しい背中を創り上げることのできる時期に入っているはずです。

 敗戦後の70年が価値観の多様化を進める時期だったとすれば、これからは押し付けでない価値観の共有を進める時代です。それぞれの親がそれぞれの価値観で新しい背中を作ればそれでいいのですが、それはそれでシンドイことですし、社会全体で子どもを育てることの必要性を再認識してくれる人々なら、多様な価値観を認め合った上での価値観の共有ということも理解してくれるはずです。

 決して自分だけでしつけようとしないことです。今回は「あの子もこの子もみんなの子」ではなくて「あの親もこの親もみんなの親」です。




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